「もう、帰らないと」 雨上がり。 鳥たちの、会話のような鳴き声を聴きながら、傘を手に小屋を出る。 歩を進めるかさねには、以前のような強い寂寥感はない。 ……いや、寂しいことは寂しい。けれども、それ以上に心が満ち足りているのだ。 「楽しかったなぁ……」 先ほどまでの逢瀬を思い返しながら、小さく呟く。 いくら、忘れてしまうとしても。 いくら、なかったことになったとしても。 それでも、かさねにとって、やはり特別な人なのだろう。 「また、次も逢えますよね? ……お兄さん」 小さく振り返り、山小屋を見るかさね。 紡いだ魂は、既に元の場所へと戻っただろう。 けれど、絆はここに。 ……かさねに、しっかりと結びつけられているはずだ。 「ふぅ……我慢できると思ったのに。いきなり泣いちゃった」 いつ、誰を紡ぐのか。それは、事前にわかっていることだ。 だから、前もって宿の面々には、涙を見せないことを宣言していた。 心の揺らぎを……紡ぐべき魂の綻びを、いたずらに広げてしまうかもしれない。 そう思って、必死に我慢したのだが……。 「ごまかせて……ない、よね。うぅ……」 出会って早々の失態に、落ち込む。 しかし、かさねは知らない。 薄弱になっていた彼の意識を強く引き戻した要因が、その涙だということを。 この世界に流れ着く魂は、全てが断片。 沢山の意識が流れ込めば、強い自我を持つこともある。 だが、少なければその逆もありえる。 今回は、後者だ。 ……いや、後者だった。 迷い込んできた魂は、以前のことを覚えていない。 彼ら、彼女らにとって、ここでの出来事はすぐに忘れる夢と同義なのだ。 けれど、再会で流したかさねの涙は、奥底にしまいこみ、取り出す事もかなわないはずの蓋を小さく揺らした。 それが天然だとしても、やはりそうなのだろう。 迷い込む者にとって、選んだ紡ぎ手は唯一であり、もっとも欲している存在なのだ。 「…………えへ」 丁寧にしまいこんだふたつの鶴を懐から取りだし、微笑むかさね。 半分くらい手伝ってしまったが、それでも特別な人が折ってくれた鶴だ。 かさねの大事な思い出として、そしてかけがえのない宝物として、このつがいは大切にされることだろう。 「あ、早く帰らないと」 しばらくそうしていたが、気付くと少し陽が傾き始めている。 夜の森を通る準備もないかさねは、気を取り直してすぐに山を下りていった。 *** 「あっ……」 西日が強くなってきたころ、無事に宿の前へと辿り着いたかさねは、門に挟まっている紙を手に取る。 恐らく手紙、だろう。 「みんな、出かけてるのかな?」 これを直接受け取る人がいなかったから、ここに挟まっているのだろうと考えるかさね。 どこへ行ったのか、と首を傾げながら門をくぐり、玄関を開ける。 「ただいま、帰りましたー」 声を掛けてみても、それに応える人はいない。 やはり、みんな出かけているらしい。 傘を立てかけ、小さく跳ねた泥を丁寧に落としてから、靴を脱ぐ。 いったん自分の部屋に戻って宝物入れに2羽の鶴をしまい、持ち出した茶葉をお勝手に戻し、手紙を手にみつなの部屋へと向かう。 だが、その途中でかさねは気付く。 「あれ、これ……?」 基本的に、宿へ届く手紙はみつな宛だ。 しかし、改めて手紙を見てみると、そこには『宿のみなさんへ』という宛名が入っていた。 宿のみなさん、であれば、そこには当然かさねも入る事になるだろう。 であれば、この中身は自分が見ても良い内容と解釈できる。 ……そう結論づけたかさねは、廊下の真ん中で少し雑に折られている紙を広げた。 その瞬間――― 「ただーいまー!」 「ひゃっ!?」 玄関から、とうかの元気な声が響く。 「とかちん、声でっかい」 「えーやんえーやん、どーせ誰もおらへんし」 どうやら、ふうりも一緒のようだ。 2人で、遊びにでも出かけていたのだろうか。 「いるよ、ほら」 「あれ、ほんまやね? かさちー、帰ってきはったんやなー」 玄関には、濡れた傘も靴もある。 推理するまでもなく、それはかさねがここにいる、何よりの証拠だ。 「え、えっと、えっと……」 別に悪い事をしているわけでもないのに、全員宛の手紙を勝手に開けたという後ろめたさから、妙に焦ってしまうかさね。 何事もなかったかのように手紙を元に戻そうとするのだが、雑に折られた紙のせいで、戻し方がすぐにはわからない。 「う、ううぅ……こうなったらっ!」 あとに引けなくなったかさねは、手紙を手に持ったまま、自分の部屋へと隠れることにする。 ……もちろん、そんなのは何の意味も無いのだが。 *** 「えっと……うんっと……?」 畳み方がわからずに四苦八苦していると、とんとんと廊下を進む足音が聞こえてくる。 「かさちー、おかえりー」 「だいじょーぶ? 泣かなかった?」 襖が開くその直前、机の下に手紙を隠しながらかさねは2人を出迎える。 「あ、あはは……とうかちゃんとふうりちゃんも、お帰りなさい。わたしはこの通り、元気ですよー」 焦りながらも、精一杯の笑顔を浮かべるかさね。 「ほんまに? うちらが帰ってくるまで、わんわん泣いてはったんやないの?」 「ん……目もそんなに赤くないし、それはないと思う。少し涙ぐんだくらい?」 「う……よ、よくわかりますね」 変な所で鋭いふうりに、ビシッと図星を突かれてしまう。 「けど……うん、なんや元気そうやな」 「前は元気じゃなかったの?」 「うん。ボンヤリしすぎて、話にならんかった」 「そ、そこまでじゃ、ない……と、思います、よ?」 「かさちん、歯切れ悪い」 「ほんまのことやからなー」 「も、もー、とーかちゃんっ」 だが、そう言いつつも、前回と違うことはかさねも自覚している。 別れに慣れたわけではないが、ひとつの確信があるからこそ、落ち込まないのだ。 「まだちょっと、1人にしてあげよう?」 「せやな、うちらも手洗いしてへんし」 「ん、うがいはだいじっ」 そう言い残した2人は、襖を閉め、パタパタとお勝手へと向かっていった。 「ふぅ……」 どうにかバレなかったと安堵しつつ、机の下にしまった手紙を取り出す。 1人になれた安心感からか、気持ちに余裕が生まれたかさねは、それを広げてみる。 「ん……? あ、なんだ。さくのさんからだったんだ」 ここをみつなに任せて、フラフラと各地を旅しているたまゆらの宿の古株。 そんな彼女から届いた、旅の便りだったらしい。 考えてみれば、この雑な折り方や右上がりの文字には、見覚えがある。 「えっと……」 なら、やっぱり自分が先に読んでいても大丈夫なものだろう。 そう思ったかさねが、しばらく読み進めてみると――― 「え? ……戻ってくる?」 なんでもないように、さらっと、衝撃的な事実がそこには書かれていたのだった。 (了)