《ことことこと……》 ことことと、小さく音を立てて鍋が揺れる。 早瀬を見送り、彼女の帰りを待つ貴方。結果がどうなっているかが分からないため、お祝いという訳ではないが。 どんな結果になってもいいよう、彼女が喜んでくれた……人参を多めにした煮物を作りながら待っている最中であった。 熱しては冷ましを数度繰り返し、すでにじんわりと味がしみ込んでくれているようだ。 ……時間としては、そろそろ結果が出ていてもおかしくない頃のはずである。 結果発表や、詳しく聞いていないがその後部活のメンバーで集まっての打ち上げなどもあるだろう。 何時になるかは分からないが、遅くならない内に帰ると言っていたので予定が分かれば一度連絡をくれるだろうか? そんな事を考えながら、貴方がぼうっとしていると……。 《がらんからーん……》 早瀬 「ただいま……今戻ったわ」 《ことこと……かちっ》 唐突に、玄関の扉が開き彼女の声が聞こえた。 貴方が驚き、火を止め玄関へ向かうとそこには……早瀬がいた。 大会が終わった後のはずなのに何時もと変わらない様子で、そこに。 早瀬 「何よ、ぽかんとした顔をして。 ……帰ってきちゃダメだったかしら? 待っててくれたと……思ってたのだけれど」 不満そうな彼女の様子に、慌てて首を横に振る貴方。 ただもっと時間が掛かると思っていたから驚いた事を伝えると、少しだけ渋い顔をする早瀬。 早瀬 「……結果が出たから。 色々打ち上げだなんだとか、言ってたけど……早く帰りたくて黙って抜けてきたのよ。 ……貴方に一刻も早く会いたかったのもあるんだから、男冥利と感謝して欲しい気持ちもあるのだけれど?」 ちらりと、小さな笑みすら浮かべていう彼女に貴方は咄嗟に何も言えなかった。 ……いつも通りの彼女なのは、間違いがなかった。けれど……どうしてだろうか? その態度が、妙に……彼女の強がりのように感じられてしまうのは。 ――大会、どうだったの? 思わず、問うてしまう貴方。 するとびくり、と……早瀬の肩が震えた。 早瀬 「……まぁまぁよ、うん。 えぇ……悪い結果ではなかったわ」 言いながら平気そうな顔をしながらも早瀬はそっと顔を反らす。 何か言って欲しいのか、それとも……何も言って欲しくないのか。 沈黙する彼女とどう話せばいいのか分からず、何も言えなくなってしまう貴方。 ただ、せめて労いだけはと……それだけは伝えようと、口を開く。 ――そっか……うん、お疲れさま。 早瀬 「っっ!?……聞かないの?何位だったのか、とか。 自信を持って言える結果なら、言うだろうとか……思わない訳?」 途端に、何処か不安そうな様子で早瀬が聞き返す。 ……詳しく聞きたい気持ちは、勿論貴方にもあった。 けれど、こんな……つい先日の不安そうだった様子を思わせる態度の彼女に……聞ける訳がなかった。 ――聞きたいし、思わなくはないけど……聞かない。 ――早瀬がどれだけ、大会のために必死だったかは、誰より良く知ってるつもりだから。 それだけ言って、彼女を部屋にあげようと手を差し伸ばす。 どんな結果であってもいい、彼女の努力をこそ……貴方は労いたいと準備していたのだから。 ――君の好きだって言ってた人参を多めにして、煮物作っておいたんだ。 ――いっぱいあるから、今日は好きなだけ食べてよ……ね? そう、貴方は言葉を作り、早瀬を労うようにそっと微笑んだ。 彼女はそれを見て、目を大きく見開き……ぎゅっと、強く唇を噛む。 早瀬 「っ……ぅ、……ぁ、ぅ……っ! ば、か…………今の私に、優しくなんてしないでよ……っ! どうして貴方は、こういう時にそんな優しくっ!! 止めて、止めてったら……っ!お願いっ!!……っ、惨めになるのよぉ」 早瀬 「……ごめんなさい、ごめんなさい……ダメだった、頑張ったけど……私、優勝できなかった」 早瀬 「もともと、別に順位なんて気にするつもりなんかなかった……ママが喜んでくれるから、私やってただけだし。 でも……最後だから……ママが、最後に楽しみにしててくれた事だから……だから、出来ればって何所かで思ってたみたい。 だから、必死に……今回だけは”良い成績”で終わらないようにしようって、練習してきた……私が今生きてる意味って、その約束だけしかないって思ってたから。 何より、今回は……そんな私を支えてくれた、貴方がいたから……他に何も考えられなくなってた私に、そうやって……支えてくれた貴方がいたから」 早瀬 「今回だけはって、順位なんか気にしないで全力でやればママはきっと喜んでくれるって、そう思って……気にしない、つもりだったのに……あぁ、だめ……。 涙が、勝手に出てくるの……! ダメだって分かった時から、ママと貴方の顔が頭に浮かんできて……目の前がぐるぐる回って、立ってるのが苦しくて……っ。 ……こんなに、自分が弱いだなんて今迄思わなかった。 こんなに、自分が情けないなんて知らなかった……悔しい、歯がゆい……情けない!」 早瀬 「私を馬鹿にしてた、周りの声なんて気にもかけてなかったけど全部……全部本当だったのかもとか、 ママの事しか興味を持たないようにして逃げてただけの……卑怯者なのかもとか! なんて、弱くて……酷くて、ダメな人間なんだろう、私って……ずっと、そんな事ばっか思ちゃって……」 早瀬 「あは……はは。 そしたら、表彰式もすっぽかして……気付いたら、ここにいたの。 貴方の、顔が……どうしようもなく見たくて……そうじゃないと、もう……自分ってものすら、良く分からなくなりそうで」 早瀬 「ごめんなさい……私、貴方にあんなに支えて貰ったのに……勝てなかった」 ぽろ、ぽろ、ぽろ……と早瀬の頬を涙が伝っていく。 貴方にも話していなかった……無愛想で、強気で、何も気にしていないという仮面に隠されていた不安が……大会が終わった結果も伴い、剥がれ落ちているのかもしれない。 今回だけは練習に集中したいと、貴方の支えを受け続けるのを受け入れた理由も……この思いからであったのだろう。 自分のすべてだった人を失い、とっくに罅割れていた心が……今弾けて、赤裸々なまでにむき出しになっていた。 そんな彼女を、放ってなんておく事なんか出来るはずがなかった。 何故なら、それこそ……あの時から、彼女を支え続けていた理由なのだから。 貴方は思わず彼女に駆け寄り、小さく嗚咽し続ける彼女を強く……強く抱きしめた。 《ぎゅ……》 早瀬 「っ……ぅ、ぁ……ぁ……ぅぅっ! ごめんなさい……ごめんなさい、貴方が……色々、してくれたのにっ。 ごめんなさい、ごめんなさいママ……!私、私……ママに自慢出来る私でいたかったのに……。 最後なのに、楽しみにしててくれたのに……私、私……応えてあげられなかった! ちゃんと応えて……胸を張って……ママに、お別れ言ってあげようって……受け止めなきゃって、ずっと思って……頑張った……頑張ったつもりなのよ!?でも……でもぉっ!!」 腕の中で、彼女の母親が死んでから溜め込んでいたのであろう……言葉にならない、思いを受け止めながら、 貴方は……ただ、彼女が泣き止むまで……静かに背中を撫で続けた。 早瀬 「ぅ……ぁ、うぁ……うぁああああぁぁぁぁぁっっ!」