筆力の不足により、本編を聴いただけでは理解しがたい内容になってしまいました。 ですので、特に重要だったり、分かりにくかったりする点について解説を書きました。 もし本編を聴いて興味を持って頂けたようでしたら、この解説を読まれますとよりお楽しみ頂けるかと思います。 ネタバレを含みますので、本編を聴いた後でお読みください。 本作を分かりやすくする事と、(これでも)文量を少なくする事を考えて書きましたので、説明が不足していたり、誤解を招きかねない箇所もあります。 また、調査不十分で書いてある事が間違っている可能性も考えられますので、あまり鵜呑みにはしないでください。 (バイノーラルパートより長い解説が付くとか、ラノベの痛い応募作品かな?) 〇「我等と屍人は夜の底を疾く駆ける」 作中に出した「我等と屍人は夜の底を疾く駆ける」という文ですが、これには元ネタが存在します。 それは、ドイツの詩人ビュルガーの『レノーレ』と、そしてそれを引用したアイルランドの作家ブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』です。 『レノーレ』は、バラッドという詩の形式をとった作品で、書かれたドイツはもとより、イギリスでも大きな反響を呼び、多くの英訳が生まれました。 内容をかいつまんで説明すると、戦争で恋人を亡くした娘が、その死を悲しみ恋人と結ばれる事を願ったのを神が聞き入れる。ある夜、亡くなったはずの恋人が娘を迎えに来て、娘を婚姻の寝床に誘い、馬で駆け出す。しかし、行き着いた先は墓場で、恋人は亡霊の本性を現し、娘は苦しみの声を上げ、2人は墓穴の中に消える、というものです。 この中で、蘇った恋人が娘を誘う際に掛けた言葉の一つが「我等と屍人は夜の底を疾く駆ける」です。 ブラム・ストーカーは、そのバラッドを承け『吸血鬼ドラキュラ』の冒頭で、主人公ジョナサン・ハーカーが乗合馬車で、ドラキュラ伯爵との待ち合わせ場所に着いた際に、突如現れたドラキュラ伯爵が扮する馭者に対して、乗合馬車の乗客にこの言葉をささやかせ、その馭者が『レノーレ』の亡霊なった恋人と同様に超常の存在である事を暗示させました。 つまり、本作では、吸血鬼ちゃんのセリフは『吸血鬼ドラキュラ』の文脈を踏まえた使い方で「自分は超常の存在(吸血鬼)である、食糧として愛している君の血を吸って殺してやろう」とでもいう脅し文句として使用しています。 それに対し、キャヴェンデッシュのプレゼントは『レノーレ』を意識した「愛しの君を同じ死の床に連れて行く」という愛の告白(?)として使用しているというわけです。 しかしながら、この時代にごく少量で、それも生命力が強く、動く死体である吸血鬼を殺しうる毒物を発見、精製、保管、運用するだけの技術があるのでしょうか? 無責任ながらキャベンディッシュの未発表の研究に期待しましょう。 さて、次に述べる訳出については非常に細かい話になりますので、興味のある方だけお読み頂き、そうでない方は次項まで飛ばしてください。 この「我等と屍人は夜の底を疾く駆ける」という訳ですが、私家訳です。 他のセリフから浮いた、キーワードとしたかったので、既存の和訳よりも詩的な表現に訳したつもりです。 これは、ロセッティの英訳から和訳しました。 それでは該当箇所は、  We and the dead gallop fast thro' the night.(Rossetti1884 l.134) となっています。美しい英訳ですが、この文には問題があります。キャヴェンデッシュの没年は1810年、この訳は彼の存命中には存在しません。(そもそも1766年の時点ではドイツ語原本すら存在しませんし、ましてや1897年著の『吸血鬼ドラキュラ』も無いのですが……) そこで、一応キャベンディッシュ存命中かつ最も早い英訳である1790年のテイラーの訳を見ると、  and we“Outstride the earthlie men.(Taylor1790) とあります。古い英語なので分かりにくいですが直訳すれば、  そして、我等は「間を駆け抜ける地を這う者たちの。 とでもなるでしょうか。屍人を引き連れて駆け抜けるはずなのにニュアンスが違って聞こえます。これでは、後述しますが、『吸血鬼ドラキュラ』の文脈を踏まえる際に問題になってしまいます。 ドイツ語原文を見てみると、  Wir und die Todten reiten schnell.(Burger1773 l.134) とあります。拙いドイツ語知識で直訳しますと、  我等とその屍人は馬で駆ける速く。 とでもなるでしょうか。ロセッティの訳と比べると物足りない気がします。 原文を踏まえると意訳のようですし、キャヴェンデッシュの存命期間とは合いませんが、ストーリー性を重視してロセッティの訳を元としました。 視界の無い環境の雰囲気や夜という不気味さ、吸血鬼のイメージを取った形です。 そして、ブラム・ストーカーはこの文を『吸血鬼ドラキュラ』で引用したと言いましたが、正しく言うと改変があります。 とりあえず見ていきましょう、『吸血鬼ドラキュラ』での引用箇所は次のようになっています、  "Denn die Todten reiten schnell"――  ("For the dead travel fast") (Stoker1897 p.11 ll.23-24) まずドイツ語の引用文を挙げて、それを()内でブラム・ストーカー自身が分かりやすいように英訳しています。 乗馬でなくて、馬車だからでしょうか、reiten(馬に乗るの意)の訳はrideではなくてtravelなのかという疑問はありますが、それ以外は素直な訳です。 前述のドイツ語原文と比べると冒頭の「Wir und(We and)」が無くなって、代わりに「Denn(For)」が付いているのが分かります。 これは発話者が乗り合い馬車の乗客なので、乗客が動作の主に含まれるのではなく、あくまで「Todten(屍人)」であるドラキュラ伯爵が扮した馭者のみが超常、かつ速く駆ける事からの改変かと思われます。 先述のテイラーの訳ですと屍人(地を這う者たち)の間を駆け抜けるとの事なので、屍人であるドラキュラ伯爵が置いてけぼりになってしまうのが問題です。 しかし、本作の場合『吸血鬼ドラキュラ』の文脈を踏まえているからと言って、この「Wir und(我等と)」の部分を削ってしまうと、発話者である吸血鬼ちゃんの超常性や、吸血対象として愛しているよという、キャヴェンデッシュを我等に含む皮肉めいた愛情表現の要素が無くなってしまいます。 ですので、本作では『レノーレ』からの引用文はロセッティ英訳から訳出し「我等と屍人は夜の底を疾く駆ける」で統一させて頂きました。 出典及び略号 『レノーレ』(独語原本)  ・Burger1773  https://de.wikisource.org/wiki/Leonore 『レノーレ』(英訳)  ・Taylor1790  https://en.wikisource.org/wiki/Lenora_(Taylor)  ・Rossetti1884  http://www.rossettiarchive.org/docs/1-1844.harvardms.rad.html 『吸血鬼ドラキュラ』(英語原本)  ・Stoker1897  https://archive.org/details/dracula00stok ※JISコードの都合上、ドイツ語のウムラウトを省略させて頂きました。正しくはBurgerのuはウムラウト付きです。 〇ヘンリー・キャベンディッシュ 本作の主人公ヘンリー・キャベンディッシュ(1731-1810)は実在の人物です、もっとも創作の都合上、時系列や性格等、多少の改変をしてはいますが。 さて、皆様はヘンリー・キャベンディッシュについてどんなイメージを持たれているでしょうか? 恐らく多くの方は「誰だ、そいつ?」と思われるのではないでしょうか? 彼は、非常に優秀な科学者でした、それは同時代の化学者ハンフリー・デービーが彼の死に寄せて「ニュートンの死以来、キャベンディッシュの死ほどイギリスが大きな損失を被った事はない」と言ったほどです。 実際、彼は非常に多くの偉大な発見をしました、水素、アルゴン、地球の密度の測定、気体の熱膨張率、逆2乗の法則、誘電分極、稀薄溶液の電気伝導、比熱、潜熱、分圧の法則、ヒ素、等々。 それにも関わらず、今日彼の知名度が低いのは何故でしょうか? 本編をお聴き頂いた方々は、もうお分かりかもしれません。 そう、彼は極度に人付き合いが苦手だったのです。 また、彼の興味は純粋に科学の探求にのみ注がれており、名誉や金銭などは全く興味がありませんでした。 ですので、彼の発見の多くが、ただ発見されメモに書き留められただけで、発表されませんでした。 死後に知られたそれらの法則には、オームだのクーロン、ゲイ=リュサック、コールラウシュだのの発表者の名前が付けられていましたが、彼の発見はそれらに50年以上先立つものもありました。 そのような生活ができたのは、父方がデヴォンシャー公、母方がケント公という名家、その上、彼の父や伯父・伯母がイギリス屈指の資産家であったため金に困る事がなかったからでしょう。 彼には、他の科学者のように生活のために研究する必要などなかったのです。 彼の相続した財産には最大所有であるイギリス公債や毎年莫大な収入をもたらす運河などがありました。 父の束縛が無くなった事とその財産とは、彼の暮らしぶりを変化させてしまいます。 屋敷に使用人専用の階段を作ったり、使用人と顔を合わせずに伝令できるシステムを構築したりと、使用人にすら会わなくて済む引き籠り研究生活を満喫できるようになったのです。 研究には金を惜しまなかったものの、生活水準は当時の貴族と比べてかなり質素だったようです。もっとも、こちらは父親の存命中から変わらなかったようですが。 その人嫌いたるや、たまたまメイドと顔を合わせてしまったという理由で、その運の悪いメイドは解雇されてしまったり、王立協会の集会においてもほとんど口を開かず、彼の顔を覗き込むのは禁止されていたそうです。 そんなのですから、彼にとって名声や注目は苦痛でしかなく、自己顕示欲のために発表する事もなかったのです。 また、教会に出席するような信仰心は持っておらず、ケンブリッジ大学で優秀な成績を収めながらも学位を取らなかったのは、英国国教会の宣誓要求を拒否したからと推測されています。 そんな彼だからこそ、顔も見えず、存在感の薄い吸血鬼に憧れや親近感を感じるのかもしれないというのが本作の発想でした。 もっとも、史実の彼に忠実であるならば、例えば彼の興味を引くのに発表を聞いた感想は「金属以外の可燃物に塩酸を掛けてもフロギストンは発生するの?」といった科学的関心でなければならない気がしますが、さすがに聴き手の共感を得られそうにないので若干、いえかなりマイルドな性格になってもらいました。 〇吸血鬼ちゃん 特定の伝承の吸血鬼や創作の吸血鬼をモデルにしたわけでも無く、本作にとって都合のいい要素をかき集めさせてもらいました。 少なくともヒポクラテス(BC460-370頃)の存命中から生きてるのに少女なのかという疑問はありますが、かのカーミラも少女と表現されていますし外見年齢重視でお願いします。 吸血鬼っぽい要素ですが、 ・血を飲む ・起き上がった死体である(意識は生前のまま) ・不老不死 ・夜目が効く ・牙がある ・細かい粒や「結び目」を数えるのに夢中になってしまう(編み物が趣味) ・日光が苦手(苦手なだけで灰になったりするわけではない) ・流れる水を渡れない(苦手) ・催眠術(声) といった所でしょうか。 18世紀イギリスにおいても、貴族がお抱えの医者を持つというのは一般的な事でした。 当時の医療の現場で使われていた古代ギリシアの医術知識に精通しており、血液のスペシャリストとしてデヴォンシャー公爵家に囲われているという設定です。 地下牢に幽閉されてはいますが、人を襲わずとも血が手に入ったり、裁縫道具がもらえたり、日光に触れずに生活できたり、吸血鬼という理由で異端審問や、薬草の知識がある事から魔女裁判にかけられる事も無かったりと、むしろ居心地の良さを覚えています。 省エネな娘で血を飲む事に罪悪感があり、瀉血をするにしてもなるべく少量の血で済まそうとしていました。 瀉血という間違った療法によって健康を害した例はとても多く、有名どころでは、エイダ・ラブレス、モーツァルト、ジョージ・ワシントンなどは瀉血による失血死で亡くなったとされています。 これは医者(や床屋などの瀉血に携わる者)だけの問題ではなく、患者の方からもっと血を抜いてくれという希望が出される事も問題でした。 ですので、抜いた血の量の見えない暗い空間で、少量の血を抜くだけで済ませる彼女は当時としては名医だった事でしょう。 また、彼女が埋められた後にラベンダーが咲いた事ですが、これはご都合主義ではなく、吸血鬼らしい理由があります。 吸血鬼と思われた死体がよく発見されたのは石灰質の土壌でした。 石灰質の土壌では腐敗菌が繁殖しにくく、その状況下で保存される事により、脂肪が蝋状に変化して死体が生前の様子を保ったまま残る、屍蝋化という現象が起こりやすくなります。 そして屍蝋化した死体が掘り返されると、この死体はまるで生きているようだと思われ、蘇った死者、引いては吸血鬼と判断されました。 これが吸血鬼伝承の一因となっています。 そして、石灰質の土壌はラベンダーの生育に適した土壌でもあります。 という事で、本来とは逆順の話にはなってしまいますが、吸血鬼が埋められていた場所というのはラベンダーの生育に適した土壌条件と一致していたのです。 ややこじつけな理由になってしまいましたが、神の気まぐれがあったと解釈されたのでは可哀そうです。 なぜなら、彼らは神の救済を望まぬ科学者と吸血鬼なのですから。 〇当時の医学 1687年に物理学史上最も偉大な書籍とされる、アイザック・ニュートン著『自然哲学の数学的諸原理』が出版されました。 これによって、手で触れる事ができない天体の運行に科学的な説明がなされました。 しかしながら、手で触れられる人体に対して行われる治療法に科学的視点が及ぶ事は不十分で、医療の現場は古代ギリシアの頃から大して進んでいませんでした。 もちろんルネサンス期から人体の解剖が行われ、それまでの解剖学上の誤りを200箇所も指摘、血液の循環(本編中では分かりやすさと韻を取って「血管」の循環としましたが、正しくは「血液」の循環です)等々、大きな発見がされる事は当然ありました。 ですが、残念ながらそれらの知識は医療の現場にはなかなか反映されませんでした。 古代ギリシアの医学というのは、例えばヒポクラテス(BC460-370頃)が提唱した、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4種の体液が調和されている状態を健康とし、病気とはそれらの過多や過少などによって引き起こされるというものです。 そして、それらの体液のバランスを調節する方法として、瀉血、嘔吐、下剤が一般的な治療法でした。 中でも血液は過多になりやすいと考えられ、それを減らす瀉血はポピュラーな療法で、床屋にで髪を切って貰ったついでにちょっと血を抜いてくれと頼むのが当たり前のように行われていました。 当時、外科医の地位は低く、外科が床屋を兼業する事が多く、そんな外科医を理髪外科医と言いました。 今でも、その名残が床屋のサインポールとして残っています。 吸血鬼ちゃんの項でも述べましたが現在において一般的な治療法として残っていない事から分かる通り、この瀉血はほぼ悪影響しかありませんでした。 嘔吐、下剤についても診断が誤っていたために適切に使用される事はほとんどありませんでした。 当時の薬というのは、一角獣の角、人の頭蓋骨に生えたコケ、牡蠣の殻、カニの眼球、木屑にたかるシラミ、水銀などを原料としたもので、当然の事でしょうがパンくずを薬だと偽って与えた方が治りが良かったという記録があります。 内科医が用いた薬で有効なものはわずか3種しかなく、マラリアの特効薬であるキニーネを含むキナの樹皮、予防接種として使われた天然痘患者の膿、もう一つは痛み止めのアヘンチンキでした。 外科手術にしても衛生の概念がまだ存在せず、弾丸の摘出といった単純な手術ですら雑菌に感染する原因となり、しない方がマシという状態でした。 また、民間療法では、当時注目されていた電気を使ったショック療法、そして催眠療法などというものも流行っていたそうです。 このように医学が遅れていた理由の一つに、解剖用の検体の不足がありました。 キリスト教では最後の審判の際に復活する身体が重要となるため、それを損壊させる解剖はとても恐れられていました。 また本人や遺族の感情的にも、死体を切り刻まれるというのは受け入れがたいものでした。 それに加えて、イギリスでは大陸に比べて解剖の認可がなかなかおりませんでした。 結果、外科医組合が国王から認められていた死体を解剖できる権利は年間わずか6体で、またその入手も困難をはらみました。 そんな、医療事情でしたがヘンリー・キャベンディッシュ(1731-1810)の生きた時代はその変革期でもありました。 その大きな要因となったのは「実験医学の父」、「科学的外科の創始者」と言われるジョン・ハンター(1728-1793)の活躍です。 彼は墓泥棒など非公認の方法で多くの死体を手に入れ、解剖、スケッチ、標本化しました。 また多くの検死解剖の機会を得て、病状とそれによる人体内部の変化を知るなど、急速に科学的なデータを蓄積し、人体への理解を深めていきました。 彼は標本集めに熱心で、そのコレクションは自身の博物館に展示され、死後は王立外科医師会の管理のハンテリアン博物館となりました。 コレクションの中には、死後に解剖される事を全力で防ごうとした巨人症の人間の骨などといったものもあり、興味のためなら手段を選ばなかった事で知られています。 そしてジョンはその知見から嘔吐、下剤、そして瀉血といった当時の医療行為を批判していきます。 そのジョンの新説をデヴォンシャー公爵家でいち早く耳にしたであろう人物がいます。 それはヘンリー・キャベンディッシュです。 なぜならジョンは零細農家の生まれというハンデを跳ねのけて1767年、キャベンディッシュに遅れること7年にして王立協会の会員となったからです。 王立協会の会員たちはジョンのもたらす新しい知識に良くも悪くも興味津々でした。 ジョンは「シビレエイの解剖学的観察所見」という研究を1773年に提出しています。 電気についての研究をし、1776年に「シビレエイの作用を電気によって模倣するいくつかの試みについて」を提出しているキャベンディッシュも、少なくとも電気分野についてジョンの話に興味を持ち、聴いていた事でしょう、いつも通り遠巻きに。 かくしてキャベンディッシュは、新たな医学の黎明と古代ギリシア以来の医学の崩壊を知りました。 そんなキャベンディッシュが他のデヴォンシャー公爵家の者がそれを理解して、吸血鬼ちゃんに対する見方を変える前に、そして吸血鬼ちゃんがそれを知る前になんとかしてやりたいと思うのは自然な流れではないでしょうか? 余談になりますが、1788年にジョンは右足が不自然にねじれて生まれてきたある赤ん坊を診ています。 そしてジョンは、その母親に「曲がった足を矯正するよう設計した特別な長靴をはいていれば、そのうちよくなる」と言ったそうですが、幸か不幸か母親はその言葉に従いませんでした。 その赤ん坊の名はジョージ・ゴードン・バイロン。 後にロマン派を代表する詩人となり、また現在の吸血鬼像の原型である吸血鬼ルスヴン卿のモデルになった人物です。 それ故に、創作の貴族的な吸血鬼は彼の名を冠してバイロニック・バンパイアと呼ばれます。 バイロンの性格形成には、不自由な右足が影響していたそうです。 もし、ジョンの指示が聞き入れられていれば、今日の吸血鬼像は違うものになっていたのかもしれません。