恋の最初のまなざし  “天才”である私の今までの時間は、常に誰かに言いつけられたことをするだけのものでした。  天使としては最高位とも言える良家に生まれた私は、生まれた当初から容姿は美しく、喋り出すのは同年代の誰よりも早く、何をやらせても上手くできるということから、本当に幼い頃から“天才”という言葉で表現されていました。  歴代で最も優秀な天使だろう。きっと神様のお役に立てる、立派な天使となるに違いない。そんな期待をかけられて私は、長い長い家庭教育の期間を過ごすことになりました。  現代の天使の世界は、人間の学校教育のそれを忠実に模倣しています。なぜ人間に合わせるのかといえば、天使はもしかすると神様よりも人間と接する期間の方が長くなるので、できるだけその感覚を人間に近づけておいた方が何かと都合がいいためです。  そのため、子どもは六歳になれば学校教育を受け始めます。これは天使としての教育というよりは、子どもに施される最低限の礼儀や教養を教え込むためのもので、言ってしまえば学校でする必要性の薄いものでした。  結果、私はそういった教育を家庭内で、使用人の教育係から受けました。  どこで教わろうと、結果として内容が身につけばそれでいい。それは極論かもしれませんが、事実です。  ただ、私の気持ちはそうではありませんでした。  ……他の同年代の子は、学校で集団生活を経験しています。ケンカをすることもあるでしょう。泣いてしまって、学校が嫌になったり……色々な問題があることは想像に難くありません。しかし、どこよりも安全な屋敷の中で、一人勉強をする私は……ケンカのやり方ひとつ、学ぶことができなかったのです。  考えてもみれば、その時点で親の教育方針には破綻が見えてくるのです。知識としてだけ、神様や人間との接し方を学んだところで、それが実地によるものでなければ、完全には身につかない。“優秀な天使”であるためにはきっと、たくさんの人と触れ合い、彼らとの接し方を学んでおく必要があるだろうに、その機会を与えられなかったのです。  しかし、私自身に発言の自由は与えられていませんでした。そもそも、両親の顔を見る機会すら限られ、食事はメイドと一緒に。寝る時は一人きりで。  楽園は広く果てがないと知識では知っていても、私が知る“世界”は屋敷の総面積の三分の一程度の小さい世界だけでした。窓から見れる景色も限られ、見ることができるのは見事な。しかし、面白みのない屋敷の庭園だけ。  いっそここが地上であれば、夜というものがやってきて、景色に変化が現れるはずなのに、それすらないのだから……私が知る世界はあまりにも退屈で、同じ日々が繰り返されているとしか思えないのでした。  そんな日々の繰り返しの中で募っていくのは、いつかここを出て、広い世界を歩いてみたいという欲求。それから、実際に自分が見て歩く世界への期待。  そして何よりも大きいのは――知識としては知っていても、実際に見て、触れたことのない多くの物への好奇心。  年齢を重ねるほどに、満たされることのない好奇心は大きく膨らんでいき、やがて必ず来る、それが満たされる瞬間を心待ちにしていました。  家庭教育が許される期間は決まっています。その後、天使として働くことができるようになる資格を得るための天使学校には、必ず入学する必要があります。進学先は全寮制の、これもまた自由の制限される場所ではありますが。 「(ようやく、この屋敷から出られるんだ)」  長い長い間、監禁され続けた屋敷からの脱出。あまりにも魅力的なそれは、すぐそこにまで迫っているのでした。 「ここが、天使学校……」  初めて屋敷の外に出て、寮へ行った時にもドキドキは止まりませんでしたが、胸を躍らせながら校舎の方にまで向かうと……いよいよ胸の高鳴りは最高潮へと達しました。  屋敷を外から見た時に比べると、校舎に豪華さはありません。しかし、生まれて初めて見る学び舎は、黄金色に輝いているように見えました。なぜなら、ここに何十、何百という同年代の天使が通っているのです。今まで私は、同年代の天使なんて一人も知らず、知識的に写真を見たりする程度でした。なんなら、父親以外の男性すら見たことがないのです。それに、天使学校の先生は年若い新米神様。……神様に出会うのも、全く初めてのことでした。 「神様……どんな方なのかな…………」  天使とは違い、翼も輪も持たない。しかし、人間でもない、尊いお方。一体どんな姿をしているんだろう。神様を写真に撮ることは禁じられているため、全くその姿を知りません。  一度首をもたげた好奇心は留まるところを知らず、まだ入学式も済ませていないのに、私は校舎へと突撃してしまっていました。  ……が、何もかも知らない私は、今がまだ授業をやっている時間帯だということも知らなかった訳で。空っぽで、鍵のかかった教室やなんかを見て回ることしかできませんでした。  それでも。それでも、全てが物珍しい光景です。  小さく、簡素な机。まるでおもちゃのような質感に見えますが、これが学校の机、それから椅子というものなのでしょう。  それに、これも屋敷のものに比べると簡素なものですが、中庭もあります。決して造りがいいとは思えないはずなのに……初めて見るそれは、とても美しいものに思えました。ここは間違いなく私のお気に入りの場所になる。そんな確信があります。  広大なグラウンドには、サッカーゴールが見えます。遠くには、テニスコートも。こういった遊びは全て人間の作り出したものですが、天使は人間のことを知るのが大事なため、天使だってプレーします。……私は知識としてしか知りませんが。  講堂では全校集会というものが開かれるのでしょうか。面倒なものと聞きますが、きっと今の私なら楽しめると思います。だって、何もかも初めてなのですから。  再び校舎に戻って……職員室の名前のついた部屋がいくつもあるのが目に付きました。  学校案内には、特に職員室については触れられていなかったのですが、なるほど。教科によってそれぞれの先生方が別の職員室を使っているようです。私の担任の先生はどの教科なんでしょうか。  ……いつまでだって校舎の探検はできそうですが、そろそろ潮時でしょう。最後にもう一度中庭の傍を通って、出ます――ということで、中庭に誰かいるのが見えました。  後ろ姿でわかるのは、少なくともその人物が私とは異なる性別であること。つまり、男性。  実質、男性の他人を間近で見るのは初めてのことです。ただ、その後ろ姿だけで、私は何か特別なものを感じました。  恐らく格好から察するに、先生です。つまり、神様です。  ……その神様は、正しく、後光が差して見えました。どうしてなのかはわかりません。後ろ姿だけでは全容なんてわからないし、見た目がよくても、話してみないと内面まではわからないでしょう。  それなのに、彼は私にとっての“特別”であると確信できたのです。 「………………?」  気配を感じ取ったのか、彼が振り返ります。私は、一瞬だけその視線を受け止めて……すぐに振り返って走り出しました。校舎を走るのはいけないことです。しかし、入学前から私はひとつ、校則を破ってしまいました。  ……だって。あのまま、一秒以上、視線を結んでしまったら。  きっと私は、恋に落ちてしまっていたから。  天使が神様に恋するなんて、絶対にいけないこと。だから、そんなことしてはいけません。  だって私は、天才だから。誰もに期待されている、優秀な天使なのだから。  ――だけど。 「(私は、私の意志で“優秀な天使”になろうとしてない……?)」  恋に落ちかけたその時。私は初めて、疑問を抱きました。  なぜ、優秀な天使でなければならないのか。  生まれて物心ついたその時から、幾度となく言い聞かされた私の目標を、初めて否定しようという気持ちが芽生えたのです。  それぐらい、彼との出会いは衝撃的で――  入学後、その神様が担任の先生であると知った時にはもう、私は“優秀な天使”を諦める決意を半ば固めてしまっていました。なぜならば。 「(こんなに素敵な人に、恋するなと言う方が無茶だもん……)」  人間の言葉に「恋する乙女は無敵」というものがあるそうです。では、恋する天使はどうなのでしょう?  神様を“落とす”ぐらい、不遜であってもいいですか?