「あれ。何のケーキが好きだっけ……」  俺は仕事帰り、洋菓子屋に寄っていた。今日は早番のシフトで、彼女よりも早く帰れる。驚かそうと、ケーキを選んでいた。  今日は付き合って1ヶ月目。『記念日』なんて柄じゃあないが、自分にとっては特別な日だった。だって、大好だった片思いだと思っていた女性と付き合えたのだから。 「こちらのタルトがオススメですよ。最近よく売れているんです」 「イチゴのタルトかぁ……確かに、美味しそうですね」 「女性に人気です。あとは、このチョコレートのタルト。ガナッシュはサッパリしていて、くどくないんです。でも、ちゃんとコクがあって、こちらは私のオススメです」 「なるほど……」  ショーケースの前をウロウロしている俺を見かねて、店員が声を掛けてくれた。実際困っていたからとても有り難い。  フルーツの好きな彼女だ。イチゴのタルトは当たりだろう。しかし、この店員さんのオススメの、チョコレートのタルトも捨てがたい。艶々としたチョコレートも、こんがりと焼けたタルト生地も、飾りとして盛られている生チョコレートとパリパリのチョコレート細工。先端の生クリームのアクセントも良い。形も初めて見る形だ。ホールを切り取ったものとは少し違う。それらが組み合わさったのもあり、俺は惹かれていた。 「この、チョコレートタルトください。2つお願いします」 「かしこまりました。お包み致しますので、少々お待ちください」  店員さんは慣れた手つきでタルトをトレイに乗せると、背後の作業台で詰め始めた。 「どなたかと一緒に召し上がるんですか?」  振り向いた店員さんが俺に聞く。 「あ、はい。その、彼女と一緒に。恥ずかしいんですけど、今日で付き合って1ヶ月なんです。柄じゃないけど、でも、何かしたいなって」  照れ隠しに、頬をポリポリと掻きながら答えた。 「ふふふ。素敵ですね。きっと彼女さん、喜んでくれますよ」  ニッコリと笑ってそう言った後、また作業に戻った。 "だと良いんだけどな"  サプライズなんて大したものじゃないが、彼女には内緒だ。少しだけ、驚かせたい気持ちがあった。  こんなことをしようと思ったのは初めてだ。驚く顔と、喜ぶ顔が見たい。彼女の、コロコロ変わる表情が見たい。出来れば、プラスの方向で。そう思った。  待つ間、ショーケースの中身をまた眺めていた。どのケーキも美味しそうだ。今回のチョコレートタルトが当たりだったら、他のケーキを買いに来ても良いだろう。彼女と一緒に。 「お待たせ致しました。チョコレートタルト2点、お包みしております」 「有り難うございます」 「1ヶ月、おめでとうございます! 末長くお幸せに。良かったら、彼女さんとまた来てくださいね!」 「えっあっ、有り難うございます!」  『末長くお幸せに』なんて少々恥ずかしい。しかも、『彼女さんと』だなんて、自分の考えが読まれているようで、余計に恥ずかしい気持ちになった。思わず奪うように包みを貰い、背を向けて早足でその場を去る。 "うわー……顔に出てないと良いけど"  包みを運ぶ間、俺は彼女の反応ばかり考えていた。きっと、喜んでくれる筈。あの可愛らしい笑顔で「有り難う」と言ってくれるのだろう。想像しただけで胸が熱くなり、顔がにやけた。  ──ガチャッ──キィィ── 「……ただいまー」  シン──とした空気が当たりを包む。やはり、彼女はまだ帰って来ていない。ここは俺の家だが、殆ど半同棲状態だった。  生活が不規則で、不摂生な俺を見かねた彼女が、まるで通い妻のようにいつも見に来てくれているから。  その中で、料理に洗濯、制服のアイロンがけ、時間を見つけては、何でもしてくれる。  これではいけないと、俺も自分で料理を作るようになった。包丁も持ったことのなかった俺が、米を炊いて味噌汁を作れるようになった。彼女のおかげだ。洗濯もあまり溜め込まなくなった。山積みの洗濯物のある部屋に招待したくなかったし、畳んでもらうのも忍びない。  初めは甘えようと思っていた部分もあったが、何も出来ない、出来るのにやろうとしないのは恥ずかしいと、彼女といて思った。  今日もまずはタルトの包みを冷蔵庫にしまい、干していた洗濯物を取り込んだ。 「──あ。何時に帰ってくるか聞くの忘れた……ってか今日もくるか聞いてないや」  一番大事なことを忘れていた。いつも来ることが当たり前になっていたが、今日本当に来るかどうかは聞いていなかった。しまった。これで彼女が来なければ、折角用意したタルトの意味がなくなってしまう。 「あー……メールするかぁ」  ヴーヴヴ──ヴーヴヴ──  噂をすれば何とやら、彼女からメールだ。 『もうすぐ家着くよ。今日は早いんだったよね?』  良かった。今日も来てくれるんだ。 「うん、もう家に着いてる。ゆっくりで良いよ、気を付けてね」  そう返し、俺は洗濯物を畳み始めた。その洗濯物が畳み終わる頃、家のドアの鍵の開く音がした。──彼女だ。 「……お邪魔します」 「おかえりなさい!」  俺は急いで彼女を出迎えに玄関へと向かった。靴を脱ぐ彼女の手には買い物袋。何かご飯を作ろうとしているらしい。  俺は買い物袋を貰い、もう一度「おかえり」と言って、彼女の返事も待たずに唇にキスをした。 「取り敢えずしまっておくね」 「有り難う。伊織が早いって聞いたから、お昼に買いに行って、会社の冷蔵庫借りて入れていたの。おかげで早く帰れて良かった」  いつもの可愛い笑顔で彼女は言った。何度見ても可愛い。飽きない。いつまでも見ていたい。食材をしまうのは今日は俺のしごとだ。冷蔵庫の奥、ヨーグルトやケチャップ、味噌なんかで蓋をして、タルトを隠しているから。  彼女は荷物を置いて手を洗うと、置いてあるエプロンをしてキッチンに立った。 「俺もやるよ」 「そう? じゃあ、レンコンとナスとパプリカに、エビ取ってくれる?」 「りょーかい」  彼女のサポートもまた仕事。出来れば、食べるために出すその時まで気付かないでいて欲しい。今の俺のささやかな願いだ。 「仕事はどうだった? 普段早番少ないもんね」 「うん、ちょっと人手が足りなくて。でも、今日は暇だったかも。そっちは?」 「そうね、少し忙しかったかな。でも、残業しないように頑張ったよ!」  他愛ない会話をする。いつも家に帰って一人だった俺は、この時間すら愛おしいものになった。家に誰かいることで、こんなに明るく華やかになるなんて。想像もしていなかった。彼女だからこそなのかもしれないが。1ヶ月前の俺には想像もつかなかっただろう。  エビを焼く良い匂いがする。焦がした醤油と、ごま油の香ばしい匂いが鼻をくすぐった。  「洗うのが面倒だよね」なんて2人で言いながら落ち着いたのが、このワンプレートディナー。木製の大きめのお皿に、ご飯、サラダ、メインを取り分けていく。 「はい、完成」 「美味しそう! 早く食べたい!」  スープを注ぎ、プレートとスープカップをテーブルに運ぶ。彼女が持って来た箸とお茶もセットして。 「「いただきます」」  口に広がるエビの風味。プリプリの食感と、香ばしい醤油の香りがたまらない。  俺は夢中に食べていた。どの料理も美味しい。万が一失敗したとしても、彼女が作ってくれる料理ならば、喜んで食べる。俺のために作ってくれたのだから。  いつものように会話を弾ませながら摂る食事も、いつもと違う部分があった。  それは、食べ終わった後。 「ご馳走さまでした! うん、今日も美味しかった!」 「良かった。お粗末さまでした」 「あ……まだ、入る?」 「ん? うん、まだ少しなら」 「あのさ、ちょっと待ってて」  俺は食べ終わった食器をシンクへと片付け、冷蔵庫から例の包みを取り出して彼女の前へと置いた。 「なぁに? コレ」  その包みを見て、キョトンとする彼女。その姿もまた可愛い。  ゆっくりと包みを解き、箱の中身が彼女から見えるように蓋を開けた。 「1ヶ月間有り難う。その、これからも宜しく」  恥ずかしくて、目を逸らしながら言った。 「……あ……」  彼女の方をチラリと見る。口ものを手で押さえており、その顔は真っ赤だった。 「やだ、これ、伊織が選んだの? うそ、嬉しい、有り難う!」  彼女は俺に抱きつくと、頬にキスをした。  想像以上の反応だった。不思議に思って俺も箱の中身を見る。 "──これは。驚いた……"  箱の中のチョコレートタルトは、ピースを買った筈なのにハート型になっていた。あの不思議な形は、ハート をふたつに割った形だったのだ。背を向けて斜めに置いてあったから、分からなかった。そもそも、そういう目で見ていなかったのもある。合わせるとハートになるだなんて。  そして、そのハートの真ん中。ふたつのタルトを跨ぐように、1枚のチョコプレートが置かれていた。これは、ショーケースのタルトには乗っていなかったモノだ。  同じくハートで彩られたプレートの真ん中に【I LOVE YOU】とチョコレートで書かれていた。……俺は頼んでいない。あの店員さんが、恐らく気を利かせて、もしくはイタズラで書いたのだろう。 「可愛い! これ可愛くて美味しそう! 伊織、本当に有り難う。私も、愛してるよ」  嬉しそうにはしゃぐ彼女を見ていると、思わず口元が緩む。 "こりゃあ、あの店員さんにお礼を言いに行かなきゃな。彼女も連れて"  思わぬサプライズに、俺まで嬉しくなった。 「……愛してるよ」 「……んっ……んん……ふぅ……っ……」  俺は深く口付けた。舌をゆっくりと絡ませ、唇に吸い付く。彼女は甘い吐息を漏らしながら、俺の背中に腕を回し、しがみついた。 「んん……んぅ……」  彼女の指に力が入るほど、俺は激しく舌を動かす。もっと、俺を感じて欲しいから。 「ちゅっ……んん……ふぁ……」  唇を離すと、とろんとした目で彼女が俺のことを見ていた。 「続きは寝る時に、ね?」 「……うん」  胸に顔を埋める彼女を、そっと抱きしめた。  これから沢山時間はある。甘くて美味しいチョコレートタルトに舌鼓を打ちながら、これから先のことをぼんやりと考えていた。  そのチョコレートタルトに、負けず劣らず甘い生活になるだろう日々を。