〇我々の社会へようこそ 「マ……は、……ませんか? マ……t……は、要りませんか?」 アイルランドの冬は緯度の割に暖かい。温暖なメキシコ湾流から吹く偏西風のおかげである。 だが、暖かいとは言っても、比較的というものだ。満足な服を買えない貧民には、そんな恵みをもたらすはずの風さえ容赦なく肌を刺すのだ。 彼に街を案内されている折、聞こえてきた少女の震える声は、風に消えてしまうように弱かった。 豊かなこの街には、仕事を求めて周辺から貧しい者達がやってくるのだ。中には、この少女のような子供までいる始末だ。 彼は、いやこの街の人々は、慈悲深いと聞いている。 「お嬢さん。これで2つ頂けるかね? なに、釣りは要らないよ。フィッシュ&チップスでもお食べなさい」 そう言って、彼は少女に目線を合わせるように屈み、10ペンス硬貨を2枚握らせた。 商品を受け取って、僕に向き直ると、一転して苦い顔を見せる。 「まったく、この大きい街を歩いたり、田舎を旅行したりすると、憂鬱な光景が展開される。子供は社会の財産だというのに。それを満足な衣食も与えられず、あんな労働をさせる親が居るなど……」 義憤を隠せない様子で、少女の足を見やる。痩せた膝にあかぎれた裸足が痛々しい。僕もやりきれない気持ちになった。 「君もどうだね」 彼は、少女から買った物を、僕に1つ差し出した。 「我々の仕事には欠かせない物だ」 彼は、それを口に咥える。 「ご存知かね? サルマナザ―ルという有名な台湾人の話によると、日本ではこのマーマイトと似た物が精力剤として知られているそうだ」 僕もそれに倣ってチューブを咥えて吸う、酷い味だ。そう感じるのは陰鬱な光景を目にした後だからだろうか。 「君は、あの少女の不幸の責任はあの子にあるか、それとも親にあるか、どちらだと思う?」 マーマイトを吸いながら歩いていると、ふと彼がそう切り出した。 「それは、親だと思います」 僕は答えた。 「なぜ?」と彼。 「子供は生まれてくる事を選べませんが、親は子を産む事を選べます。貧富の差は、生まれの段階で決まり過ぎている。大人だってそれを覆すのは難しいものです、まして子供にそれを求めるのは酷な話でしょう」 理由を述べると、彼は「確かにそうだ」とほほ笑んだが、卑怯にも第3の選択肢を示した。 「私はね、社会の責任だと思うのだよ。君は大人だって生まれを覆すのは難しいと言ったね。しかし、我々の社会が優れているのは、それを覆す手段を市民全員に用意した点なのだ。その方法を提示できたから、ダブリンの広場にはスウィフトの像が建てられたのだよ」 首都ダブリンの広場にはジョナサン・スウィフトの銅像が建てられ、その台座には「国家の保護者」と、そして「貧民救済法」の条文が刻まれている。 「そして、子供を作る自由を放棄し、社会に譲渡する事で、スウィフトの案を発展させたのが我々の社会だ。これによって生活は更に豊かになり、不幸な思いをする子供は居なくなった。それを決定しているのが此処だよ」 そう言って、チューブで指し示す。その建物には「出生管理センター」とあった。 「ここは、この社会の中心となる施設だ」 彼は、そう切り出して、滔々と語り始めた。 「女の子は我々の産業の核をなす大切な存在だ。彼女らは、宿舎に集められて出産や育児に関する教育を受け、またそれらの役割を担っている。 女の子達は自らをJC(女子Citizen)と呼称している。宿舎が教育機関を兼ねているので、学校教育を受けている訳ではない。しかし、彼女らが自らを市民(citizen)と名乗るのは、この誇らしき社会の構成員たる自覚の高さの現れであり、宿舎教育の質の高さを示す証左だろうね。 JCは出産に適した年齢になると、その役目を担うようになる。『貧民救済私案』に「女の子については、学校に行く年まで育てることは、私案のもとでは社会の損失になるだろう。なにしろ、女の子達はそこまで育てばすぐ出産できるのだ」とあるが、だいたいそのくらいの齢だろう。 かと言って、無計画に出産すれば良い訳ではない。そこで出番となるのが出生管理センターだ。 出生管理センターは、JC達の種付け申請を受け、需要や成績等を踏まえてその可否を下す。 相手の男だって、誰でも良いとはいかない。そう、君のような優秀な遺伝子の持ち主でなければね。君の社会への貢献に期待しているよ。 そうして、種付けして良いと判断されれば、出生管理センターは代金を受け取り、種付け許可証を発行する。 種付け許可証には、対象となるJCと種付け屋のID、それと種付け予定日が記されている。 JCは指定の日時に種付け屋を訪れ、許可証を渡して種付けを行う事になる。 君にそんな心配など要らないと思うが、この時に金銭や、嗜好品といった許可証以外の物を受け取ったり、渡してはならない。そういった行為は不正な種付けの温床となり、血統を貶め、社会に損失をもたらしてしまうからね。堅く禁じられている。 種付け屋は、許可証を出生管理センターに持って行って、それと引き換えに報酬を貰う仕組みさ。 おっと、種付けを行う前には、許可証と相手のIDタグの確認を怠ってはならない。そう、その左耳に付けられたIDタグだよ。 誤った相手への種付けは、種付け屋の責任でもある。罰則は免れない。知らなかったで済まされれば、いくらでも不正は可能だからね。 IDタグや許可証の偽造も重罪であるし、ここの市民は皆、優れた倫理観の持ち主だからまず大丈夫だが、万が一という事もある、よくよく気を付けるようにするといい。 IDタグや許可証を偽造・悪用する行為をした者には更生の課程が待っている。幸いにも、更生の課程を終えて再犯を行った者は居ない。まったくそんな点でも、出生管理センターの仕事は優れているね。 余談だが、王国内ではシカ不足が問題になっていたが、「貧民救済法」施行以降、シカ不足が緩和されたそうだ。 シカ肉は味も良いが、なんといっても逃げるシカを追い立てて狩る、シカ狩りの興奮が最高のスパイスとなる。そんな狩りの高揚感を味わえる代替物が見つかったのは喜ばしい限りだ」 彼は僕に向かって猟銃を向ける様な格好をする。そして「バンッ! 君もやってみるかね」と言って歯を見せて笑った。 「いいですね、機会があればご一緒させてください。でも僕に銃を向けるのは勘弁してくださいよ」 お茶目な一面を見せる彼に、僕はそう冗談めかして答える。 彼はただ無言でニヤリと笑みを返した。 「おっと、話を戻そうか。 出生管理センターの認可が下り、相手の確認ができたら、さあ種付けという段になるが、なに気張る事はない。実の所、種付け屋の仕事というのは専ら受け身であって、主体的に働きかけるのはJCの側なのだ。 これは考えてみれば、当然の事だ。着床率というのは、種付け屋とJCの双方にとって重要な成績ではある。しかし、多くのJCを相手にする、つまりは試行回数が多い種付け屋と違って、JCは自分の成績のみで以て評価される訳だ。そして、その成績は収入と密接に結びついてくる。そうなるとJCが着床率を上げる為に、可能な限り精子を搾り取ろうと躍起になるのは当然の事だろう。 そんな訳だから、各宿舎ではJC達に手練手管を仕込んだり、仲間内で腕を磨いているようだ。種付けにおける問題は、往々にして種付け屋が搾り取られ過ぎる事にある。 まあ、彼女たちも真剣であるし、それが社会にとって有益な事なのだ。受け止めて、いや吐き出してやるのが男の度量という物だよ。 なに、このマーマイトもそうだが、ウナギのゼリー寄せや、スターゲイジーパイのような精の付く食べ物は豊富だ。しっかり英気を養ってくれたまえ。 JCの手管から、この子はあの宿舎かなんて推測する余裕ができるようになれば、種付け屋として一人前さ。 こうして生まれた赤ん坊だが、生まれると左耳にIDタグを取り付けられる。正確な管理は、品質を高める為に重要だから当然の事だろう。 このIDタグは再発行可能ではあるが、極めて煩雑な確認を要する。悪用されれば、ブランド価値を下げてしまうからね。君も失くさないよう、気を付けてくれたまえ。 それと赤ん坊に対して重要な処置は、不具の男児や、多過ぎる男児を去勢する事だ。男性ホルモンは筋肉を発達させて、肉質を損ねてしまうし、悪臭の原因になってしまうからだ。 多過ぎると言っても、大半がそうだ。種付け屋1人で多くのJCに種付けできるからね。スウィフトは男1人で女4人と言っていたが、それは男が種付け以外の仕事を行う前提の話だ。現在ではブランドとしての価値が上がり、収益も大幅に増えている。男は種付け以外の仕事をしなくても良いし、他の仕事をして貴重な才を浪費すべきではない。JC達も立派に経済的な自立を果たしているから、男に養われる必要もない。結婚なんてのも今となっては時代錯誤でナンセンスな話さ。そんなわけで種付けに専念できるから、男はスウィフトの予想の10分の1も要らないくらいだ。とても効率的だろう? 赤ん坊は、各宿舎で大切に育てられる。そして、1歳頃になるとお待ちかねの出荷の時期さ。 最も価値が高いのは、繁殖用候補の男児だ。数が少なくて済む分、選び抜かれたエリートだからね。出生管理センターによって、両親の血統や過去の出荷成績、健康状態等で公正な審査がされる。この審査に合格すれば、晴れて繁殖用候補として出生管理センターに引き取られ育てられる事になる。 残念ながら合格しなかった男児は安値で出荷される事になるが、これは宿舎側の判断ミスだから仕方のない事だろうね。社会の利益を損ねるのはあるまじき行為だよ。あまり欲張らずに、しっかりとした去勢を行うのが肝要だね。 繁殖用の男児は成長すると改めて、審査にかけられ、それを通過すれば晴れて種付け屋となる。君はそれに合格したわけだ、おめでとう。我々の社会に、君のような優秀な遺伝子を迎える事ができて嬉しいよ。 一方で、審査に落ちてしまった男児は、労働力として、社会に貢献する事になる。解体や加工、出荷は力仕事だからね。女衆だけでは手に余るというものだ。やはり去勢されていない男手は需要があるし、彼らには非常時の繁殖用という重要な役目もある。ただ、彼らに繁殖用の任が回る事はまずない。繁殖用として取引された男児が別の労働を担うというのは、法律のグレーゾーンではある。まあ、あくまで、繁殖用「候補」であるし、ブランド価値を高めるため、社会のためだ、格の落ちる遺伝子を種付けしないというのは仕方ない措置だね。 そうしょげた顔をしなさんな。彼らもこの産業の一端を担う者達だよ。他の仕事程ではないが、高い所得は保証されている、何も非人道的な事などありはせんよ。 次いで価値が高いのは繁殖用女児だね。これは引き続き宿舎で育てられるので、直接的に換金されるわけではないが、将来、出産を担うJCとなり社会を支え、莫大な利益をもたらしてくれる。もっとも、供給が需要を上回るようでは価値が落ちていけない、当然、出生管理センターが各宿舎に許可した数まででなければならない。 JCは皆、胸が大きいだろう。それはこうして、よく肥えた子供を出荷する能力≒乳の出が良い血統を選んで選択交配した成果だよ。 JC達は、格差による不満が実害を生まないよう、出荷成績に応じて階級(クラス)分けされる。こうしてやると、より上位のクラスに行けるよう、健全な競争が起こってブランド価値が高まる事になる。 出産適齢期を終えたJC達は、出産や育児の経験を活かし、指導役としてそのまま宿舎に残ったり、出生管理センターが適性を判断し、出生管理センターに勤めたり、出荷や革製品の加工等の仕事に就く事になるね。 出荷の話に戻そうか、次に高値で取引されるのは丸焼き用だが、これは祝典等の特別な時のみの需要だね。常にある需要ではない。解体して肉質を評価するわけにはいかないから、触感での判断と、見栄え良く丸々と太った子供が選ばれる事になる。 心配する事はない、子供の出荷目的は食用と繁殖用に限ると定められているし、丸焼きには出生管理センターの職員が立ち会う決まりになっている。彼らが低賃金の労働に就かされるような倫理に反する事は起きないよ。 それら以外の子供は皮を剥いで、解体し、A〜Cの歩留まり等級(食べれる部位の多さ)、1〜5の肉質等級で評価され、その評価と体重に応じた額で取引される。つまりA5(エーゴ)というのが出荷での最高評価で、C1が最も低い事になるね。A5というのはとても良い成績だ、そう簡単に取れるものではない。 そういった優秀な出荷成績があって、また着床率が良い事、安産である事、流産、死産の経験、重大な病歴が無い事等の優秀な成績のJCとなって、ようやく赤ん坊が繁殖用として選ばれる資格を得る訳だ。 これが我々の社会、食用児生産の社会の構造だ。 食用児の価値は非常に高い、ましてブランド化された今となっては莫大な利益をもたらす。 このように、我々の社会の構成員は全て、高所得の食用児産業に勤める事ができるのだよ。 我々の子供は、堕胎や、虐待や、不具や、過酷な労働や、貧しい生活に苦しめられずに済むのだ。 そして、衣食住を外部に依存する事で、今なお貧しさに苦しむ哀れな者達に仕事を与えてやれるのだ。 ノーブル・オブリゲーション、それが才ある我等の責務なのだよ。 完璧な分業ではないか。高所得な食用児生産に適した我々はそれを成すべきなのだ。その才を捨てて低所得な労働を選ぶなど理性的な判断ではない、狂人の所業だ。 サンク・フォード!(なんと素晴らしい事だ!)なんと合理的、なんと幸せな事じゃないか。 我々は理性の徒、十字架の上部を切り落とし合理性の象徴たるTの字にした者達なのだ。 そして、我々は最期の時まで完全に幸福なのだよ。良質のアヘンチンキを好きなだけ買えるからね。サンク・フォード! サンク・フォード!」 彼が手を差し出す。僕はその手を握る。彼も堅く握り返す、なんて力強い確信に満ちた握手。彼の熱気が腕を昇ってくるようだ。 熱が胸に灯る、この社会の一員として迎え入れられた事が誇らしい。胸の熱さに突き動かされて、唱和する。 「「サンク・フォード!」」 ああ、なんてすばらしい新社会。 「貧民救済法」第一条 ――アイルランド特区においては、人権の付与を1歳6ヶ月の時点とする―― ジョナサン・スウィフト像碑文より 〇ざっくりとした用語解説 ※イギリス料理については、ジョークとしてやや過剰に書いています。 料理や文化についての理解が深まれば、これらの料理も「それ程は」ひどく無い物なのだそうです。 ・フィッシュ&チップス 白身魚のフライにポテトフライを添えたイギリスを代表する料理。 問題は、往々にしてパサつくくらい火を通し、衣が硬く油でギトギトになっている事らしい。 当たり前だが、日本人の感覚でまともと思える調理をする店の物は美味いとの事。 ・ジョルジュ・サルマナザール(George Psalmanazar 1679?-1763) 自称台湾人の多分フランス人。イギリスに渡り、知識階級の人々に台湾や日本についての話をして回った。著書に『台湾誌』(『台湾(日本皇帝支配下の島)の歴史地理に関する記述』)がある。 経歴や書名から察する通り、内容はデタラメである。 ・マーマイト ビール醸造の副産物である、ビール酵母の沈殿物を使った食品。 非常に栄養価に優れるが、発酵食品の常として、他国民にウケず、自国民ですら好き嫌いが分かれる。日本で言う、納豆の立ち位置か。 普通は、パン等に塗って食べ、吸う物ではない。 なお、本来マーマイト社の物はボトル入りで、チューブでの販売はスイスのセノヴィ社等の類似商品でされている。 日本では、ビール酵母を使った栄養食品として「強力わかもと」や「エビオス錠」が知られている。 ・ウナギのゼリー寄せ ウナギをぶつ切りにして、煮込んで冷やした、煮凝りのような物。 臭み消しをほとんどしていないので、泥臭さと生臭さが凄まじいのがゲロマズ料理として有名な理由。 調味料を掛けて食べれば、臭みは軽減されるらしいが、もう少し見た目とかさぁ……。 ・スターゲイジーパイ ニシンを使ったパイ。問題は、盛り付けにある。 ニシンの頭がパイの上に、星を見上げる(スターゲイジー)かのように飾られている様はあまりに衝撃的。 邪悪な何かを召喚できそうな見た目をしている。 ・ノーブル・オブリゲーション(noble obligation) フランス語ノブレス・オブリージュ(仏noblesse oblige)の英訳。 持てる身分である貴族や富裕層、有力者等は、持たざる身分の者達に模範を示したり、施しを行う等の責務があるとするような社会的規範。 ここでは、舞台が日本でない事を強調するために英訳を用いているが、別に英語圏の人だろうが、ノブレス・オブリージュとフランス語を使ったりもする。言わばHENTAIが世界共通語なのと同じである。 ・サンク・フォード! オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』から。 作中では、キリスト教の信仰は忘れ去られ、十字架の代わりに、合理性、効率化、大量生産、大量消費等の象徴としてTの文字が崇められています。 これは初めて工程にベルトコンベアによる流れ作業を取り入れた自動車、T型フォードのTです。 そして、「My god!」等の代わりに「Ford!」が、肯定的な用法である「Thank god!」等の代わりには「Thank Ford!」が用いられています。 フォード・モーターはアメリカの会社ですが、細かいことは気にしないように。 〇設定 この作品の舞台は、アイルランド、それも、『アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』(以下、『貧民救済私案』)を基にした、「アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめる法律」(以下、「貧民救済法」)が施行された架空のアイルランドを舞台としたディストピア作品です。 〇『貧民救済私案』 順に解説していくと、『貧民救済私案』とは、『ガリバー旅行記』の作者として有名なジョナサン・スウィフトが、アイルランドの貧民の窮状を見かねて1729年に発表した風刺文書です。 彼の提案した方法に従えば、 ・貧民の親の経済的な救済 ・国家の出費の削減 ・堕胎・虐待の防止 ・経済の活性化 等々が容易に実現できると述べました。 その方法とは、子供が最もコストパフォーマンスに優れたタイミング、1歳を迎えた際に食用として国中の富裕層に売りつけるという驚きのものでした。 そのようにすれば、貧民の親は子供を売った利益を得る事ができ、親や国家は1歳以降の養育費を払わずに済み、堕胎しない方が利益があるので堕胎を防止し、商品価値を上げるために虐待などせず大切に育てられ、その子供を使った料理や革製品が新たな産業となって経済が活性化すると言うのです。 無論これは、彼の本心ではなく、カニバリズムという衝撃的な行為を淡々と語る事で、それほどまでに酷いアイルランドの窮状と、それに対して救済の手を差し伸べない当局への痛烈な批判を意図したものです。 本作の「貧民救済法」の内容は、アイルランド特区における人権の付与を遅らせる事と、売買を出生管理センターの管理下で行う事、売買の目的を食肉用(及び皮の加工等の付随する用途)と繁殖用に限定する事、それらに伴う罰則の強化です。 そして、合理化、効率化が推し進められた結果、経済が完全に食用児産業に依存してしまい、後戻りできない状況になっています。 〇ディストピア 次にディストピアとは、ユートピア(理想郷)の反対を意味する言葉で、暗黒郷、地獄郷などとも訳されます。 創作においては、全ての人が幸福である、全ての人が健康で病人や不具者や老人などがいない、全ての人が適職に就いている、戦争や犯罪が無い等、一見するとユートピアのように見える世界として描かれます。 しかし、その実、それらのお題目達成の為に、人とみなされない階級の存在、健常者以外は処分、超管理社会、超監視社会等、そもそもお題目が嘘だったり、その達成の為に異常なしわ寄せが来ています。 このように、ある理想が実現された社会の歪みを描く事で、人間に内在的な恐怖を浮き彫りにし、現実社会を批判するような作品がディストピア作品と言われます。 知っている、もしくはタイトルは聞いた事があるという方が多そうな作品を挙げれば、 ・『タイムマシン』H・G・ウェルズ ・『1984年』ジョージ・オーウェル ・『華氏451度』レイ・ブラッドベリ ・『新世界より』貴志祐介 ・『虐殺器官』、『ハーモニー』伊藤計劃 ・『下ネタという概念の存在しない退屈な世界』赤城大空 ・『PSYCHO-PASS』アニメ ・『パラノイア』TRPG 等が知名度が高そうに思われます。 また本作の設定には、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』のオマージュが多々含まれます。 テンプレート的な展開をユートピアと解釈し、それに対するディストピアを描いたのが本作です。バイノーラル音声作品でディストピアものを作ってみたいと思ったのがきっかけで、何かを批判するような意図はありません。 〇補足 僕は、ディストピア作品はジグソーパズルに似ていると思います。未知の世界のピース、それは美しく、しかし、よく見るとどこか違和感を感じさせます。ピースをはめ込んで、世界の姿が現れてくる度に違和感は増し、逆刺のように残り続けるようになります。 そして最後の1ピース、美しい世界に似つかわしくない程に醜悪ながら、それは残された穴と同じ形をしているのです。そして、気味の悪いくらいすっぽりとはまってしまう感触、はめた瞬間、パズルの中の世界が現実を侵食していくようなゾクッとした悪寒。 僕は、そんなカタルシス、と言うか逆カタルシスとでも呼ぶべき感覚にディストピア作品の魅力を感じてしまいます。 上記のSSでは分かりにくかったピースは、 ・ヒロインの役名が少女Aなのは、彼女がこの社会において特別な存在ではなく、ごく平凡な少女に過ぎないからです。しいて言えば、平均より優秀な出荷成績の持ち主という事くらいでしょうか。 ・少女Aが貴方の耳を気にしていたり、左耳にばかり囁いていたのはこの社会において左耳は特別な耳であり、そこに彼女の気を引く物があったからです。そう、IDタグが取り付けられた側の耳です。許可されていない男に種付けされるわけにはいきませんし、食用児として優秀な遺伝子を示すIDタグが付けられている耳は素敵ですよね。 イラストでは家畜に付ける耳標をモデルにお願いしました。刻まれている数字は「1984」、ジョージ・オーウェルの『1984年』からです。また高貴な家畜という人間像は、最初のディストピア作品であるH・G・ウェルズの『タイムマシン』の未来に繋がりそうな物にできて気に入っています。 ・少女Aが味や食事に関する表現を多用するのは、この社会が食品を生産する事を中心とした社会なので、自然とそういった事に関心が向くからです。 ・少女Aが賢さを感じさせる言動に比して、語彙が貧しいのは学校教育がされていないからです。 彼女は基本的に1つの物を1つの名称でしか呼びません。例えば、胸とおっぱいが指している物は違うという事です。 ・各章題はディストピア小説のパロディです。 Ch.1 摂氏36.4度(Celsius 36.4)  レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(Fahrenheit 451) 華氏451度は紙の発火点、摂氏36.4度は排卵日の体温としてよく挙げられる温度。 ch.2 おっぱいがいっぱい(No Room! No Room!) ハリイ・ハリスン『人間がいっぱい』(Make Room! Make Room!) 映画『ソイレントグリーン』の原作と言った方が通じるかもしれません。 ch.3 種付け器官(MAITING ORGAN) 伊藤計劃『虐殺器官』(GENOCIDAL ORGAN) 僕は気づいたんだ、種付けには、共通の深層文法がある事に。 ch.4 きゅにゅーJCを孕ませるお仕事(BRAVE NEW JOB) オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(BRAVE NEW WORLD) さらに元ネタはシェイクスピアの『テンペスト』。超訳? 何の事ですか? また、この作品の基にした『貧民救済私案』ですが、「青空文庫」様にて和訳テキストを読む事ができます。8000字程度の短い文章ですし、名文ですので、この作品を機に読んで頂ければ幸いです。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000912/card4268.html ここまで読んで頂き、ありがとうございました。もう一度、聴き返すと一味違って聴こえるのではないかと思います。 あまーいショートケーキのお口直しに、ハバネロソースはいかがでしょうか?