このTipsは、本編の理解に必読ではありません。 本作は、本編だけで、物語を楽しめるように作ったつもりです。 ですが、馴染みが薄かったり、難解な要素についてはTipsを用意致しました。 併せて読んで頂ければ、より本編をお楽しみ頂けるかと思います。 正直、調査が足らないと思っておりますが、これ以上は論文や外国語文献をあたらないといけないレベルなのでご容赦頂ければ幸いです。 面白く理解を深めれる事を主眼に書いておりますので、はしょってしまったり、面白さや分かりやすさを優先して書いてしまった所が多々あります。より深く、より正確に知りたい方は末尾の参考文献一覧をご参照ください。 ○『千夜一夜物語』 ※この項目は、『千夜一夜物語』(全年齢対象!)程度の性的表現を含みます。苦手な方は飛ばしてください。 『千夜一夜物語』、もしくは『アラビアン・ナイト』は、9世紀頃に成立したと思われる物語集です。 アラビア語の原題は、『アルフ・ライラ・ワ・ライラ』。それぞれ、アルフ(千)・ライラ(夜)・ワ(一)・ライラ(夜)という意味で、『千夜一夜物語』というタイトルは直訳、『アラビアン・ナイト』というのは、アラビアで夜に語られた物語という内容から来た意訳となっています。 『千夜一夜物語』は、入れ子型構造をした物語です。 入れ子とは、大きな箱の中に小さな箱が入った物です。 入れ子型構造というのは、話を箱にたとえたもので、物語の登場人物が物語を語るという構造を指します。 有名な、<アラジン>や<アリババ>、<シンドバッド>も作中の人物が語った物語なのです。 では、それらの物語を語った人物は誰かと言うと、本作の主人公、シェヘラザードです。 このシェヘラザードについての物語が、入れ子型構造の一番外にある物語ですので、<枠物語>と言われます。 では、その<枠物語>ですが、ご存じの方がどれだけ居るでしょうか? 恐らく詳しい方でも、シェヘラザードが王様に物語を聞かせて凶行を止めた、というふんわりした内容しか知らないかと思います。 上に挙げた<アラジン>等が広く知られているのに、それが語られる元となった<枠物語>がほとんど知られていないのは何故でしょうか? 答えはとても簡単、教育上よろしくないからです。 せっかくですから、<枠物語>と、雰囲気を掴みやすくする為、1つ目の物語である<商人と魔神の物語>を抄出してみました。 ・シャーリヤール王とその弟の物語(<枠物語>) 昔々、ササーン朝ペルシア(226-651)にシャーリヤールという王がおりました。 シャーリヤール王には、別の国を治めるシャー・ザマンという弟がおりました。 「久しぶりに弟者に会いたいのう」 お互いの国を良く治めるのに忙しく、兄弟の仲は良いものの20年来会う事ができておりませんでした。 兄者は大臣に財宝や奴隷、おっぱいの大きな処女等を持たせ、弟者へ遣いにやらせました。 弟者は、兄者からの遣いの来訪を喜び、兄者の国に赴く事にしました。 ところがうっかり者の弟者。城を発った日の夜に、兄者への贈り物として用意した宝石を城に忘れてきた事に気づいてあわてて引き返します。 「いやー、うっかりうっかり。気づいて良かったわい」 そう言って自室に戻ると、何という事でしょう、自分のベッドでは裸の王妃と黒人奴隷が抱き合って眠っているではありませんか。 「この売女め」 弟者は太刀を引き抜くと怒りまかせに振るい、1つになっていた2人を一刀の元に4つの肉塊にしてしまいました。 そんな事があったので、敬愛する兄者と再会を果たしても、弟者の心は王妃の不貞に囚われ、気分は晴れませんでした。 兄者が心配して原因を尋ねるも、弟者は口を閉ざし、ご馳走も喉を通りません。 兄者もそんな弟者の気分転換にと狩りに誘ったのですが、やはり弟者は断ってしまいました。 兄者は仕方なく弟者を置いて狩りに出ることにしました。 その間、弟者は王宮の中庭を憂鬱にぼーっと眺めていました。 すると後宮の門が開き、中から兄者の妃が20人程の人をぞろぞろと連れて現れたではありませんか。 弟者は、何事かと思い物陰に隠れて眺めます。 「ここにおいでなさいませ、ザイード様!」 妃がそう声を上げると、一本の庭木から醜い黒人奴隷が現れて眼をぎょろりとさせました。 一同は着物を脱いで熱く抱擁を交わし、唇を貪り、激しく求めあいました。 朝から始まった淫欲の宴は、陽が陰りだしてようやく終わりを迎え、一同は後宮へ、黒人奴隷は木立の中へと戻っていきました。 「兄者は俺よりも偉大な王だ。そんな兄者でさえ不貞を図られるのだ。俺は不幸だと思っていたが、兄者の不幸に比べれば軽いものではないか」 一部始終を目撃した弟者は、不貞に走る女というものに対する怒りがふつふつと沸き上がり、その怒りの前に悲しみは晴れてしまいました。 悲しみが晴れたおかげで、夕餉をぺろりと平らげ、眠りも深く、弟者はすっかり元気を取り戻しました。 さて10日が経って兄者が狩りから戻ると、弟者の元気な姿に喜びますが、理由を尋ねても言葉を濁すばかりです。 それでも重ねて問うと、「実は……」と弟者は一切を打ち明けました。 「そんな馬鹿な」と信じられない様子の兄者に、弟者は「ではもう一度確かめてみるのが良いでしょう」と提案しました。 兄弟は旅に出ると言って王宮を離れると、夜中にコッソリと戻り、翌朝中庭を見渡せる例の物陰に隠れました。 するとどうでしょう、再び王妃たちがぞろぞろと現れ、眼下で弟者が語った通りの光景が繰り広げられたではありませんか。 それを見てしまった兄者は悲しみに沈み、「俺より不幸な奴に会いに行く」と弟者を連れて傷心の旅に出かけました。 そうして海辺のほとりにある美しい泉に差し掛かった時のことです、海原が荒れて真っ黒な波の柱が立ち上がりました。 兄弟は驚いて、近くの木に登って身を隠します。 波の柱から現れたのは、見上げるような背丈の恐ろしい魔神でした。 魔神は7つの鍵が付いた水晶の箱を下すと、その鍵を開けていきます。 そんな厳重に仕舞われていたものは何かと言えば、うら若く美しい乙女でした。 「おおん、俺の嫁よ。お前の処女は誰にも渡さんぞ」 魔神はそう言うと、乙女の太ももに頭を載せて、さも気持ち良さそうに大きないびきをかき始めました。 乙女は兄弟が隠れた木を見上げると、魔神の頭をそっと膝枕から下ろし、兄弟に呼びかけました。 「あんた達、降りてきて3Pしなさいな。断るならあんた達に犯されたって叫ぶよ。ウチの旦那、処女厨のスジ者だから、あんた達、殺されちゃうわよ」 兄弟は、仕方なく木から降りると乙女に従いました。 「なかなかイイモノ持ってるじゃない」 事が終わると、乙女は大量の指輪が通された紐をじゃらじゃらと見せつけました。 「コレが何だかご存じ?」 兄弟は「知りません!」と首を振ります。 乙女はニタリと唇を歪めて言いました。 「撃墜マークよ。570個あるわ。全部旦那に隠れて取ってやったの。ほら、あんた達もヤル事やったんだから早くお出しなさいな。早くしないとウチの旦那を起こすよ」 兄弟が慌てて指輪を差し出すと、乙女はそれを紐に通し、魔神の頭を再び太ももに載せました。 「ほら、ウチの旦那が目を覚ます前にさっさとお行き」 兄弟はいそいそと立ち去ると、口々に言いました。 「あの魔神は俺達よりずっと偉大なのに、あの女に手玉に取られるとは。清楚なナリをしてとんだビッチではないか。女ってマジでクソだな!」 自分より悲惨な魔神と出会って悲しみが紛れた兄者は、都に帰ると大臣を呼んで王妃達を不貞のカドで処刑するよう命じました。 加えて、大臣に毎晩1人の処女を連れて来させました。 兄者はその娘を抱いて、夜が明けると大臣に首をはねさせました。 兄者はすっかり女性不審に陥っていました。大臣は王を恐れて、命令に従がいました。 そんな調子が3年続き、国民は狂王へと変じた兄者を呪うように、その御代が滅びる事を祈るようになってしまいました。 王の凶行によって年頃の娘は減り、親達は娘を連れて逃げ出したので、ついに大臣は王の元へ連れて行く処女を見つける事ができなくなってしまいました。 さて、この大臣にはシェヘラザードとドゥンャザードという2人の娘がいました。 中でも姉のシェヘラザードは年代記や伝記、詩歌、哲学、科学、芸術等々、博覧強記でいて、しかも快活でやさしく、所作も優れていました。 そのシェヘラザードが顔色の悪い父を心配してわけを尋ねます。 大臣が一部始終を聞かせると、シェヘラザードは凛として返しました。 「わたくしを王の相手としてくださいませ」 それを聞いて大臣は激怒しました。 「わしはお前が心配なのだよ、例の牡牛とロバのような酷い目に遭いはしないかと」 「お父様、それはどのようなお話でしょうか?」 シェヘラザードがそう問いましたので、大臣は次のように話し出しました。 ・牡牛とロバの話(<枠物語>の続き) 昔、大金持ちの商人がいました。 この商人は、アッラーから獣や鳥の言葉が分かる力が授けられていました。 しかし、その能力を授かった事を他人にもらせば命は無いという託宣も受けていました。 ある日の事、商人が牛舎のそばに腰を下ろしていると、牡牛がロバに向かって話しているのが聞こえてきました。 「ロバ君、君はいいね。だって君の部屋はきれいに掃除されているし、美味しい食事も貰えてる。それに仕事と言っても、たまにご主人を乗せて町に行くくらいじゃないか。それに比べて俺の部屋はろくに掃除もしてもらえず臭くてたまらないし、食事も粗末な豆やワラだ。おまけに夜も明ける前から引っ張り出されて、日が暮れるまで鋤を引かされる。たまったもんじゃないよ」 それを聞いてロバは鼻で笑いました。 「牡牛君、君はバカだねぇ。いいかい、君はそうやって人間の言う通りにしているから君がそれで満足していると思われているんだ。仮病を使うといい。粗末な食事を出されても食べない事、それに鞭で打たれても我慢するんだ、働いてはいけないよ。そうすればご主人も君を心配してやさしくしてくれるから」 牡牛は「なるほど」と、ロバの助言に従う事にしました。 農夫が、牡牛を鋤に繋ぎ、鞭で打っても働こうとしません。 翌朝、農夫が牛舎に行くと、昨日用意したエサはちっとも減っておらず、牡牛も仰向けにひっくり返っていかにも苦しげです。 農夫は心配になって、主人である商人に「牡牛は病気でございます」と報告しました。 牡牛とロバの話を聞いていた商人は「では、ロバに鋤を繋いで、牡牛の仕事を代わりにやらすがよい」と命じました。 こうしてロバは、傷だらけでへとへとになるまで働かされ、代わりに牡牛はのんびりと美味しい餌を食べて過ごしました。 牡牛はロバにお礼を言うも、ロバにあるのは憤りと後悔だけでした。 「よいかシェヘラザードよ。このロバは余計なお節介をしたがために身を滅ぼしたのだ。おまえも王にとつげば、あたら命を散らす事になるぞ。これはおまえへの愛情と思いやりから言っているのだ。どうかわしの言う事を聞いておくれ」 しかし、大臣の思いもむなしく、シェヘラザードの決意は変わりませんでした。 「おまえが言う事を聞かないようなら、わしは商人が自分の妻をこらしめたようにおまえをこらしめるぞ」 「商人はどのような事をされたのでしょうか?」 シェヘラザードがそう問い返したので、大臣は話を続けました。 その晩、商人の耳にロバが牡牛に話しかけるのが聞こえてきました。 「牡牛君、大変だよ。さっきご主人が君の事を話しているのを聞いてしまったんだ。君がこのまま働かず、粗末な食事も食べないようなら肉屋に売ってしまうって」 ロバはこんな生活たまらないと、牡牛をだまそうとしたのです。 牡牛はそうとも知らず、「それは危ない所だった」とすぐさま餌をたいらげ、飼い葉桶まで舐めてぴかぴかにしました。 あくる朝も、牡牛は自分から畑に行って、尻尾を振り回しながら元気に飛び回って鋤を引きました。 その様子を見ていた商人は思わず吹き出してしまいました。 すると隣にいた妻が「何を笑っているの?」と尋ねます。 「動物たちがしゃべっていた事がおかしくて笑っているのさ。だが、その内容を人に言ったらわしは死んでしまう、悪いが教えてやれないよ」 と商人は答えました。 しかし、妻は商人の言う事を信じませんでした。 「嘘つき。私の事を笑ったんでしょう」とへそを曲げ、商人が死んでもいいから教えなさいとヒステリックに騒ぎ立てる始末です。 大切な大切な妻の事です、商人はほとほと困り果てた末に覚悟を決め、遺言状まで書きました。 さて打ち明ける前に沐浴して身を清めようとした時です、商人の耳に雄鶏の声が聞こえてきました。 「ウチの旦那はバカだねぇ、たった1人の女房にてこずるなんて。俺には50羽ばかりの雌鶏がいるが、上手くやってるぜ。こっちを可愛がってやったり、あっちを焦らしたりってな具合に上手く舵をとってやってね。そんな言う事を聞かない女は、あばらが折れるくらいこっぴどくシバいてやるのさ。『悪うございました、二度とお尋ね致しません』って泣き叫ぶまでね。そうやって女を操縦できないような男は能無しさ」 商人はすくっと立ち上がると、雄鶏の言った通りに妻を打ち据えました。 すると妻は「悪うございました、二度とお尋ね致しません」と改心し、おとなしい女となりました。 それからは夫婦仲良く、死ぬまでたいそう幸せに暮らしたとの事です。 「よいかシェヘラザードよ。わしの言う事を聞けぬようなら、この商人のようにおまえを打ち据えるぞ」 大臣がそう言うも、シェヘラザードの決意は固く、王に嫁ぎますと頑として意志を曲げませんでした。 大臣も遂に折れ、シェヘラザードの言う通りにさせました。 大臣が「今宵の伽の相手に娘のシェヘラザードを連れて行きます」と王に告げると、王は驚きました。 というのも、以前の話では大臣の娘は伽の相手を免除するという事になっていたからです。 王は無情に言い放ちました。 「良いのか? おまえの娘であっても交わったら、明朝おまえの元へ連れて行って『殺せ』と命じるぞ。この事はアッラーに誓って間違えは無い。それでおまえが娘を殺さないようなら、代わりにお前を殺すぞ」 「そのように決心したのは娘でございます。私も言い聞かせたのですが、今夜王の元に参上しますと言って聞きません」 大臣がそう答えると、王は非常に喜びました。 さて、夜になってシェヘラザードは王の寝所に赴きました。 事が終わると、シェヘラザードはサクラとして仕込んだ妹のドゥンャザードに合図をしました。 「ねえ、お姉さま、わたくし眠れませんわ。どうか楽しくて、おもしろい、聞いた事もないようなお話をしてくださらないかしら? そんなお話をうかがっていれば退屈な眠れぬ夜も楽しく過ごせますわ」 ドゥンャザードは打ち合わせた通りに申し出ました。 「ええ、いいわよ。ただし情け深く、おやさしい王様がお許しくださればですけど」 シェヘラザードがそう返すと、王もちょうど眠れずに退屈していたところだったので「話すが良いぞ」と答えました。 そうして、シェヘラザードは「千夜一夜」の最初の夜に次のような物語を語りだしました。 ・商人と魔神の物語 昔、一人の行商人がいました。 ある朝の事、行商人は木陰に腰を下ろし、パン切れと干したナツメヤシの朝食を取りました。 食べ終わると、行商人はナツメヤシの種をブンと力強く放り投げました。 するとどうでしょう、雲をつくばかりの巨大な魔神が抜き身の刀を振りかざして、怒気もあらわに行商人に迫ってくるではありませんか。 「オイ、ワレェ! オレのせがれを殺したからには生かしてはおかんぞ!」 そう怒鳴られるも、行商人には身に覚えがありません。 「どうして私があなた様のご子息を殺したのでしょうか?」 行商人は震えあがってそうたずねます。 「ヌシの投げたナツメヤシの種が、オレのせがれに当たって殺したっつーのに、ナニとぼけとんじゃ!」 と魔神は更に詰め寄ります。 「魔神様、分かりました。この命で詫びさせて頂きます。しかし、実は私には借金も妻子も色々な約束事もございます。どうか1年、1年だけお時間を頂けないでしょうか。1年後には必ずここに戻ってきますがゆえ」 行商人はそう魔神と固く約束を交わすと、家に帰り種々の事を済ませました。 そして1年後、死の準備を整えて魔神との約束の場所にやってきました。 我が身の不幸を呪い、泣きながら魔神を待っていると、カモシカを連れた1人の老人が通りかかりました。 老人が行商人に、何をそう悲しんでいるのかとたずねると、行商人は魔神とのいきさつを話しました。 すると老人は「あなたと魔神がどういう事になるのか、そのなりゆきを見届けましょう」と隣に腰を下ろしました。 次いで、2匹の犬を連れた老人、ロバを連れた老人が現れ、それぞれ同様の事を尋ねるとまた隣に座りました。 さあ、そうしていると砂塵を巻き上げ例の魔神が現れました。 「オラ、立てィ! 今日こそヌシの命貰い受けるぞ!」 そう叫ぶ魔神に1人の老人が立ち上がって言いました。 (「魔神様、私とこの動物についての話をさせていただけませんでしょうか? それでもし魔神様がそれを不思議な話だと思われたのなら、この行商人の血を3分の1、私めにいただきたく思うのです」 魔神は興味を引かれた様子で「ほう、いいだろう。もしおまえの話が面白かったら、こいつの血を3分の1くれてやろう」と約束しました。 そこで老人は語り始めます。 「この動物、実は人間ですけど、魔法でこんな姿にされてるんですよ!」 「こりゃあ不思議な話じゃないか」 魔神はその老人の話に満足して、行商人の血を3分の1くれてやりました。)×3 3人の老人の話を、魔神は手を打って面白がりました。 「おおっと、これで全部の血をやってしまったぞ。するってぇと、おまえ達に免じて、オレはこの行商人を許してやったって事だ」 魔神のその言葉を聞くと、行商人は老人達を抱きしめて、お礼を言いました。 3人の老人も行商人にお祝いの言葉を述べて、めいめいの旅に戻りました。 「王様、これが<商人と魔神の物語>でございます」 シェヘラザードはそう言って物語を終えました。 「お姉さま。やっぱりお姉さまのお話は素敵でおもしろいですわ」 妹のドゥンャザードは、ぱあっと顔を輝かせて喜びました。 「ふふっ、ありがとう。でも次の<漁師と魔神の物語>はもっとおもしろいのよ」 シェヘラザードがそう言うと、ドゥンャザードはすかさず尋ねます。 「まあ、お姉さま。それはいったいどんな物語なのかしら。お話していただけませんか?」 「ええ、いいわよ。ただし、王様が明日1日わたくしの命をお助けくだされば、ですけど」 シェヘラザードは含んだ笑顔でそう返しました。 王もその話がたいそう気になったので、こう考えました。 (うーむ、なんとおもしろい話だ。次の話を聞き終えるまで断じてこの娘を殺すまい) 以上が、<枠物語>と一つ目の物語の抄訳です。 ふーん、これ全年齢対象なんだー。 なお、本来は、<商人と魔神の物語>は3夜に分けて語られた話であり、毎日の終わりに「明日のお話はもっと〜」と最後のようなくだりが入ります。 中途半端な所で話を切って、次の日の話が気になるようにするのがシェヘラザードスタイルです。 本作『アラビアン・ナイト』の話は、3夜目の途中〜9夜目の途中まで語られた<漁師と魔神の物語>が元になっています。 魔神を壺に再封印した後は、原型を残さないレベルの改造を受けておりますが……。 さて、抄出のご感想はいかがでしょうか? 僕の感想は、<枠物語>については、「ブッ飛んでるけど面白いな。シェヘラザードも魅力的なキャラクターだし、どんな話をするのか楽しみだ」という期待感を持たせるものでした。 しかし続く、<商人と魔神の物語>を読んで「えっ!? なにコレ、すっごいつまらないんだけど……」と期待感は墜落しました。 人間が動物に変えられた箇所も、ドラマ性はまるで無く、「実は嫁は魔法を使えまして、恨んだ相手を動物に変えたんです」という感じです。 そんな内容の話が、代わり映えも無く3回繰り返されるのです。 物語全体の内容も「面白い話をするから殺さないでくれ」と言う、シェヘラザードのメッセージが透けすぎていて稚拙感がいなめません。 それは<商人と魔神の物語>だけではありません、この物語は特に酷いですが他の物語も褒めれた物ではありません。 断言してしまいましょう、『千夜一夜物語』は面白くないです。 そう断言すると、「えっ? そんな事無いでしょう。だって<アラジン>とか<アリババ>とか<シンドバッド>とか面白いから、あれだけ認知度があるわけだし」という反論が出るかと思われます。 しかし、実はそれらは『千夜一夜物語』ではありません。 正確に言えば、『千夜一夜物語』のアラビア語原本に存在しない物語です。 アラビア語原本であるカルカッタ1版と呼ばれる写本には、200夜分程度までしか話が無かったのです。 そうなると、こんな展開になるのは予想が付くのではないでしょうか? 即ち、「1001というのが、『たくさん』という意味でなく、実際の数を表しているならあと800夜分程足りないよね」と。 そんな訳で、『千夜一夜物語』をヨーロッパに持ち込んだ訳者達は、勝手に話をでっちあげたり、その辺の民話を組み込んだりして1001夜分ある完全版(?)を完成させてしまいました。 <アラジン>も<アリババ>も<シンドバッド>も、その様に西洋の人間によって勝手に組み込まれた話なのです。 ついでに言えば、<アラジン>と<アリババ>に至ってはアラビア語原本が見つかっていません。 更に死体蹴りをすると、この<アラジン>等も面白くなるように後世に改造を施されています。 一例を挙げると、<アラジン>の舞台は、本当はアラビアではなく、支那、つまりは中国です。 では、これらの世間に知られた面白い話を差し引いて、世間に知られていないような話で構成された『千夜一夜物語』はどうでしょうか? はい、死屍累々です。 これは僕だけの評価ではありません。 ・アラビアの知識階級からは、稚拙と見向きもされなかった。 ・かつてのアラビアの娯楽は、コーヒーハウスでコーヒーを飲みながら、語り部の話を聞く事。 だが、庶民の間でも『千夜一夜物語』は人気が無くて、話せる語り部が全然居なかった。 ・西洋に持ち込まれた際にも知識階級からは、「粗雑」、「面白くない」、「意味が無い」、「ためになら無い」と酷評を受ける。 ・『アラビアンナイトを楽しむために』という本の中ですら、「これ以上は退屈」、「未熟」、「現代人にはもの足りない」、「玉が少なく、石ばかり目立つ玉石混淆」、「モチーフが甘い」等と言われる。 等と散々な言われようです。 では、なぜそんなクソつまらない『千夜一夜物語』がベストセラーに成りえたのでしょうか。 その理由は、4つあると思われます。 1つには、『千夜一夜物語』が西洋に伝えられた頃、西洋ではおとぎ話や児童文学が受け入られ始めた事。 それまでは、益体も無いと言われていたような物語が人気を得たのでした。 2つ目は、異郷ロマンです。 地元アラビアでは魅力的な要素足りえませんでしたが、西洋の人々からすると見知らぬ東洋のロマンをかき立てる話は非常に魅力的に映ったのです。 ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)などは、『七つの夜』で、  東洋という言葉の含意を私たちは『千一夜物語』に負っています。東洋からまず想い浮べるのが『千一夜物語』で、マルコ・ポーロやプレスター・ジョンの伝説や黄金の魚が棲む砂の川のことはその後です。私たちが第一に考えるのは、イスラム世界のことなのです。 (七つの夜 位置No.1232-1235) と、『千夜一夜物語』における東洋ロマンを語っています。 なお、ボルヘスは、『千夜一夜物語』について「ありとあらゆる文学の中でももっとも卓越した本であり」等と絶賛しておりますが、「いや自分の時代の名作読んでみろ、もっと素晴らしいから」としか言えません。 これは、稀代の詩人の感性を刺激しすぎて目を曇らせる程(ボルヘスは元から盲目ではありますが)、異郷ロマンに満ちていたという事でしょう。 確かに、ボルヘスの言う通り、『千夜一夜物語』というタイトルの素晴らしさには僕も同意します。 3つ目の理由は、語り部であるシェヘラザードというキャラクターの魅力ではないでしょうか。 設定上、  先王たちについての書物や年代記や伝説に精通し、また古の人々や文化についてもさまざまな物語、口碑、教訓などを読んでいた。また実際、古代の民族やその昔の統治者に関する史書の類もおびたたしく集めているといわれた。詩人の作品をつぶさに読んでは、これをそらんじ、さらに哲学、科学、芸術をはじめ、芸ごとの末にいたるまで究めつくしていた。しかも、快活でやさしく、聡明で奇知に富み、博覧強記なうえに、たいそうしつけもよかった。 (『バートン版 千夜一夜物語T』p.63 ll.5-10) 科学でなく、時代的にその前身の自然哲学だとは思いますが、これでもかというばかりのハイスペックです。 そんなキャラクターが、話の面白さで狂王を魅了するというのは、とても魅力的な設定ではないでしょうか。 では、その魅力的なはずの話の内容は、というと……4つ目の点に関わってきます。 4つ目の理由は、エロです。 超絶ハイスペック設定のシェヘラザードですが、その話す内容はというと「ち○ぽこ」発言が目立つ、下ネタ系王妃です。 んっ? 先王達の歴史は? 哲学は? 自然哲学は? 設定どこ行ったの? と言いたくなるような酷さです。 シェヘラザードのする話は、基本、教養のへったくれも無い、不思議で下ネタなものです。 王に向けて語られたという設定とは裏腹に、実態としては、教養の無い庶民が語り広めた話の集積ですから、まあ仕方ないと言えば仕方ないです。 そして、その下ネタ路線を決定づけた男がいました。 「天使のひたいと、悪魔の髭を持つ男」こと、イギリスの文化人類学者、リチャード・フランシス・バートン(1821-1890)です。 バートンの翻訳で最も有名な物は『千夜一夜物語』ですが、他にも『カーマ・スートラ』や『匂える園』も翻訳しています。 後に挙げた2つは「世界三大性典」に数えられます、早速嫌な予感が伝わるでしょうか? バートンの文章力はとても優れており、『千夜一夜物語』の「まえがき」では幻想的で朗々と異郷ロマンを駆り立てています。 そのバートンの文章力を以てして、エロ表現マシマシで英訳された『千夜一夜物語』はそれまでのイメージを塗り替えていきました。 『千夜一夜物語』には、様々な翻訳版がありますが、それぞれの翻訳について、ヘンリー・リーヴは「ガランは子供部屋に、レインは図書館に、ペインは書斎に、バートンはどぶに」と評言しています。 各翻訳の違いを比較してみましょう。 比較するのは、シャーリヤール王(兄者)の妻の不倫シーンです。 「子供部屋に」のガラン版は、性表現バッサリカットな、お子様にも安心仕様なのでそんなシーン存在しません。エッチだからね。 「図書館に」のレイン版では、 それから王妃が「マスウード」と呼びかけますと、すぐに1人の黒人奴隷がそばにやってきて王妃をかき抱き、王妃も同じことをしました。そしてほかの奴隷や女たちもこれにならい、一日が終わるまでだれもが楽しみにふけったのです。 (『世界史の中のアラビアンナイト』p.177 ll.12-14) と、ぼかした表現になっています。これは家庭向けの配慮から一部省略等したためです。 次に「書斎に」のペイン版、  王妃が「マスウード!」と呼ぶと、一人の黒人奴隷がやってきて王妃を抱き、王妃も彼を抱きました。それから黒人奴隷は王妃とともに横たわり、他の奴隷たちと一緒に同じことををしました。そして一同は口づけをし、日が傾くまでくんずほぐれつの浮かれ騒ぎが続いたのです。 (同p.178 ll.6-9) この訳は「書斎に」と言われるように、アラビア原本を忠実に訳しており、最良の英訳とされています。 それは、同じくアラビア原本から直接日本語に訳した東洋文庫版と並べると良く分かります。  やがて妃が「マスウードや」と声をかけると、一人の黒人奴隷がそのそばにやって来て、妃の首をいだき、妃もまたその男の頸をだいた。かの奴隷が妃とたわむれているとき、他の奴隷どもも、女奴隷たちと同じようなたわむれにふけった。こうして口づけ、抱きあい、まぐわい、そのようなさまざまのたわむれを日の暮れに近づくまでやめなかった。 (同p.178 ll.11-14) と、東洋文庫版でも同じ底本から訳したのが窺える文章となっています。 さて、最後に問題の「どぶに」捨てられるバートン版です。  いっぽうひとりぼっちになった妃は、すぐさま大きな声をはりあげて叫んだ。  「ここへおいで、ザイードさま!」すると、木立の中の一本の樹から、さっと飛びおりて、目をぎょろつかせ、涎を流した大きな黒人が現れたが、白人にとってはまことにいまわしい姿だった(※5)。くだんの黒人は大胆不敵にも妃に近づいて、腕をその首に巻き付けた。妃も同じように男をひしとばかりかきいだいた。つぎに、男は荒々しく接吻し、まるでボタン孔がボタンをしめるように、自分の脚を相手の脚にからみつけ、地上に押し倒して、女を楽しんだ。  他の奴隷たちも女どもを相手に同じまねをし、だれも彼も淫欲を満たした。接吻し、抱擁し、交会し、ふざけあいなどして、いつはてるともみえなかったが、陽ざしがかげりはじめるころになって、白人の奴隷らはやっと女たちの胸から立ちあがり、また黒人も妃の胸から体を起こした。男たちはふたたび女に身をやつし、樹によじ登った黒人のほか、みんな王宮にはいり、もとどおりに裏門を閉ざした。 (『バートン版 千夜一夜物語T』p.48 ll.4-16) (※5)  淫蕩な女たちが黒人を好むのは、彼らの陰茎が大きいからである。わたしはかつてソマリランドで、ある黒人のものを測ったが、平時に、ほぼ六インチであった。これは黒人種やアフリカ産動物、たとえば、馬の一特徴である。これに反して、純アラブ族――人も動物も――は、ヨーロッパの平均水準にも達しない。ついでながら、エジブト人がアラブ人種でなく、いくぶん肌の白い黒人であることは、右の事実がもっともよく証拠立てている。しかもこの巨陽は勃起中、もとの大きさに比例して、太くなるわけではない。したがって<性行為>は非常に長い時間がかかり、大いに女の愉悦を高める。  わたしの逗留中、インドのまじめな回教徒はだれも女たちをつれてザンジバルへ出かけようとしなかったが、それはかの土地で、女たちが大きな魅力や非常な誘惑をうけるからであった。イムサック=射精保留と<喜悦の延引>という問題については、さきでもっとつけ加える必要があるだろう。 (同p.85 ll.8-16) これはひどい。 表現を盛るのはまだしもとして、果たしてこの注釈は必要でしょうか? 更にこのバートンと並び称される、マルドリュスによる仏訳も登場します。 バートンとマルドリュスの訳は、『千夜一夜物語』市場における圧倒的シェアを稼ぎ、それまでのイメージを塗り替えてしまいました。 やっぱエロは強いんだなって。 ついついバートンさんをエロ魔神の様に語ってしまいましたが、誤解しないでください。 バートンさんは、イギリスの王立人類学協会を共同設立したり、ナイル川の源流を探して探検したり、強烈なキャラクター性から伝記やバートンさんを主人公にした物語がたくさん書かれたり(1971年時点で『リバーワールド』シリーズの主人公として異世界転生(?)を遂げる偉人っぷり!)する文化人類学者や探検家としてもすごい人なんです。 バートンさんは、そういった文化人類学的な興味から、『千夜一夜物語』を魔改造してしまった、すごいエロ魔神なんです。 閑話休題、西洋において広まった『千夜一夜物語』はアラビアに逆輸入され、現在では地域のイメージシンボルとしても使われるような広まりを見せています。 次の項の予備知識として必要だというのはありますが、話の筋がブレてしまいました。 長い項目でしたので、簡単にまとめたいと思います。 『千夜一夜物語』は、シェヘラザードの設定こそ魅力的だったが、話の内容がつまらなく、表現も稚拙でアラビアでは評価されなかった。 それが、西洋に紹介されると、異国情緒やおとぎ話、児童文学の需要で人気が出る。 西洋において、不足を補った完全版(?)『千夜一夜物語』を求める機運が高まる。 魔改造された訳が、世間に浸透してしまう。 人気を博した『千夜一夜物語』が、アラビアに逆輸入される。 さて、さんざんこき下ろしてしまった『千夜一夜物語』ですが、これはバートンの功績かもしれませんが表現の美しさは評価されるべきでしょう。 最後に異国ロマンを表現した、掛け値無く美しい一文を紹介して締めたいと思います。  額は花のように白く、頬はアネモネのように紅に輝き、目は野生の若い牡牛か、羚羊(カモシカ)のそれを思わせ、眉は第八月(シャアバン)を終わり、第九月(ラマザン)(※7)を迎える三日月のようでございました。 (同p.219 ll.9-10) (※7)  ラマザンの断食期が始まるから、あらゆる回教徒は新月を注視する。〔ラマザンは回教歴の第九月。〕 (同p.418 l.19) 切れ長の目に、弧を描く薄い眉のエキゾチックな美しさを感じさせる、素晴らしい表現だと思います。 僕の文章力が足りず、本編中でこのレベルの表現をお届けできなかったのは慚愧に堪えません。 なお、こんな文章もある。  乙女はハサンを手もとにひきよせ、ハサンもおなじようにしました。そして、しっかり女を抱きかかえると、相手の足を自分の腰にまきつけ、あの砲筒(※40)をむき出して、処女の堡塁をさんざんに打ち破ってしまいました。この乙女はまだいちども糸を通した事のない無疵の真珠で、ハサン以外の男をのせたことのない牝馬でした。ハサンは初鉢を破り、男盛りの青春の喜びを味わうと、やがて、鞘から刀をひきぬき、それからまた、あらためて戦にもどりました。そして、およそ十五回ほど猛烈に攻めたてて、戦闘が終わると、花嫁はその晩に身籠りました。 (同p.513 ll.4-10) (※40)  この物語の近代的な年代、もしくは近代風化を示唆している。 (同p.580 l.18) シェヘラザードさん、文章力パネーッす! ○シェヘラザード 現代日本におけるシェヘラザードのイメージといえば、布面積は最小限、なぜか水着みたいな格好で腰布と面紗を付けた踊り子ファッション、と言った褐色黒髪でお色気ムンムンのお姉様かと思われます。 この路線は、サブカルに限ったものでなく、ちくま文庫の『バートン版 千夜一夜物語』の挿絵でも、アラバスターの様に白い肌を惜しげも無く晒し、宝石しか着けてねぇ、という様で、ブックカバーを着けないと電車の中で読めない本と評されています。(表紙の女性がシェヘラザードであるかは不明ですが) しかし、このお色気路線は、先の項で挙げたバートンに端を発するものです。 それ以前のレイン版の挿絵を見ると、イスラームの女性らしくアパーヤという長衣に、ヒジャブというスカーフで髪を隠した格好をしています。 そういう格好をするのは、『クルアーン(コーラン)』で、「女性の美しい所は隠すように」と説かれるように信仰に基づくものです。 では、なぜ美しい所は隠さなければならないのかというのには、解釈に幅がありますが、男性の心を乱すから、というのがどの解釈でも根幹をなしている様子です。 つまり、不用意に男性の心を乱して社会的混乱を起こしてはならないだとか、男声を欲情させて襲われないようにするだとか、心を乱させるのは夫だけにした方が夫から大切にされるからと言った理由であって、女性蔑視から隠すように言われているわけではありません。 少々、横道にそれましたが、現状のお色気路線というのは、原文から読み取れる物とは相違するのです。 では、原文ではシェヘラザードの容姿についてどのように説かれるのかと言いますと、全く言及が無いのです。 ですので、どのようなシェヘラザード像が『千夜一夜物語』の内容上ふさわしいか、と一から考えました。 まず年齢ですが、英雄として想像されるシェヘラザードは、千一夜の物語を語り終えて、王を改心させた人物でしょう。 千一夜と言いますと、3年弱です。 当時において、結婚は恐らく十代半ば、とすると『千夜一夜物語』を語り終えたのは十代後半かと思います。 次に髪と肌、瞳の色です。 中東というと、黒髪褐色のイメージが強いですが、多彩な民族が入り混じった地域であり、髪も肌も多様性があります。 ですが、やはりアラビアを意識させる黒髪褐色の女性が活躍して欲しいという思いがあります。 その上で問題になるのが、褐色の程度ですが、これはなんとか褐色だと認識できる程度の薄さが良いと判断しました。 理由は、女奴隷の売買で、「肌の色が白い奴隷の方が高く売れるので、奴隷商人は細工して肌の色を誤魔化そうとするから注意せよ」という文章が残っているからです。 一般的には色白の方が美しいという認識だったようですので、それに倣った形です。 大臣の娘であることからも、あまり外に出る必要が無く、日焼けもしていないのが高貴なイメージに繋がってふさわしいのではないでしょうか。 髪型についても、「美しい所」である髪を短く切るのはどうかと思うので、左右に分けたロングが望ましいかと思います。 瞳については、更に種々ありますが、砂漠の夜という作品のイメージですので、ラピスラズリのような色にしました。 ラピスラズリの語源は、石を意味するラテン語のラピスと、空を意味するアラビア語のラズワルドに由来します。夜空のような深い青色をした宝石です。 容姿については、良いけれども、良過ぎはしない、という程度ではないでしょうか。 美人でスタイルも良いというのが、王妃というヒロイン像から求められるものだとは思いますが、少なくとも巨乳過ぎるようなものはどうかと思います。 シャーリヤール王は、弟者への贈り物としておっぱいの大きな処女を選んでいますので、弟者かシャーリヤール王のどちらかは巨乳派でしょうし、もう片方もそうである確率が高いと思います。 王の好みからしても、それなりに巨乳ではあったでしょう。 しかし、シェヘラザードの英雄性はあくまで、知性と物語の面白さで狂王を改心させた所であり、容姿よりも知性にウェイトが置かれるべきかと思います。 性的魅力のパラメーターが振り切れているようでは、話が面白いから殺さなかったのか、おっぱいが大きいから殺さなかったのか曖昧になりかねないので過剰過ぎないのが良いでしょう。 ファッションについては、部屋の中、それもマスターという(多分)近しい人間が相手ですので、髪や全身をすっぽり隠してしまうような格好はする必要無いでしょう。 イスラーム圏でも家の中では、女性は髪を隠さず、ある程度楽な部屋着を着ていたそうで、それに準拠しました。 Sっぽかったり、計算高い性格をしていますので、あざといワンピースくらいが適当かと思われます。 アクセサリーは、アラビアの女性は金のアクセサリーを着けているイメージですが、遊牧民なので、換金性の高い物を持ち歩けるようにして、いざという時の為の蓄財にするという意味合いがもとの様です。 女性には基本的に相続権が無かったので、子供もできずに夫に先立たれた時の保険のようなものでもありました。 アラビアでは、嫁入り先の家族(主に花婿の父親)が花嫁に金の腕輪等のアクセサリーを贈るという習慣があり、花嫁にとってはその価値が自分への愛情のバロメーターとなっているそうです。 そういう物ですからシェヘラザードについても、シャーリヤール王を改心させて自分を愛させたシンボルとして、幾つか金のアクセサリーを付けるのがストーリーに合うと思います。 性格については、原作に記述があります。 前項でも挙げましたが、  快活でやさしく、聡明で奇知に富み、博覧強記なうえに、たいそうしつけもよかった。 (同p.65 ll.9-10) との事。 加えて言えば、父親の反対を押し切って、他の娘の代わりに王に嫁いだくらいですので、自信家で気が強く、芯の通った性格でしょう。 シャーリヤール王とのやり取りを見ると、Sっ気も感じます。 最後に肝心の知性ですが、最大の問題点です。 これも原作に設定があります。  先王たちについての書物や年代記や伝説に精通し、また古の人々や文化についてもさまざまな物語、口碑、教訓などを読んでいた。また実際、古代の民族やその昔の統治者に関する史書の類もおびたたしく集めているといわれた。詩人の作品をつぶさに読んでは、これをそらんじ、さらに哲学、科学、芸術をはじめ、芸ごとの末にいたるまで究めつくしていた。 (同p.65 ll.5-9) とはあるのですが、この設定は全然活かされておりません。 『千夜一夜物語』が学術的に研究される理由の1つに、かつての庶民の暮らしぶりが分かるからというものがあります。 シェヘラザードがする話というのは、基本的に庶民の話なのです。「それでいいのか大臣の娘」と言いたくなってきます。 そして、当時の詩人からは、『千夜一夜物語』の文章は稚拙と断じられてしまっています。 哲学、科学、芸術要素はどこに有るのでしょうか? 教えて欲しいです。 むしろ、「ち○ぽこ」発言が繰り返され、頭の悪さを感じさせます。 シェヘラザードの話は、魔法や魔神が出てくる不思議で下ネタな話でしかないのです。 「いや、シャーリヤール王、この話で改心しちゃあダメでしょ」と苦言を呈したいものです。 仮に話のレベルを王に合わせたので、下ネタになっているとしても問題を感じます。 王が、女性を殺すようになったのは、王妃らの不貞が原因であって、そんな話をしたら「こいつも頭の中ち○ぽこだらけじゃねぇか! よし、殺そ」となるのがストーリー上正しい反応でしょう。 仮に王が、下ネタどんと来い超好色漢だったとしたら、面白い話が出来るシェヘラザードが英雄である必要性が無いわけでして。 他の娘相手に、「ふーん、この娘、毛ガニデパートの『きょにゅーJ○を孕ませるお仕事』の少女Aちゃんくらいえっちじゃん(ダイマ)。よし明日も楽しんだろ……やべ、この娘がえっち過ぎて気づいたら千一夜経ってたわ。仕方無い、この娘のえっちさに免じて改心するか」となっても良いわけです。 これは、話が面白い娘が英雄となるという『千夜一夜物語』の根幹に関わる大問題ではないでしょうか? ですので、本作では「ち○ぽこ」はアンインストールして、設定に相応しい知識を学んで貰いました。 その知識の範囲ですが、『千夜一夜物語』が現在の形を取った19世紀頃までとしました。 19世紀頃までの、主にイスラーム圏の知識を持っているという感じです。 その範囲で、過去のアラビア人が現代日本人にする面白い話とは……と考えて出た解答がAF、アルケミー・フィクションでした。 かつて、西洋において古代ギリシアの英知が途絶えた際、それを継承していたアラビアは世界一の知識を誇っておりました。 その中にあったのが、錬金術や哲学です。 僕は、SFやファンタジーが好きです。 中でも、空想の要素を出す事によって、哲学や倫理的な問題を浮き彫りにさせる、現実をえぐり抜くような物が好きです。 科学はあくまで技術であって、哲学や倫理の問いに答えられるものではありません。 にもかかわらず、科学が発展すると、哲学や倫理の問いが発生してしまいます。 例えば、遺伝子の分野が発展して、クローンや遺伝子組み換えの問題が出てくるように。 それで本作では、錬金術というかつての学問を使って、哲学の古くからある分野、幸福論に焦点を当ててみた次第です。 シェヘラザードは、知性に富み、物語の世界に引きずり込むような、魅力的で、どこか怪物的なキャラクターであって欲しいと思いました。 そんな、僕の思いを反映して、現実と物語の境界を曖昧にするようなシナリオを書いてみたつもりです。 こんなシェヘラザード像はいかがでしたでしょうか? なお、設定上シェヘラザードは、ササーン朝の人間なのですが、『千夜一夜物語』の時代考証はガバガバです。 まず、なぜササーン朝(226-651)の時代にイスラームが浸透しているのでしょうか? ムハンマドがマッカ(メッカ)で、天使ジブリールからアッラーの啓示を受けたとされるのが610年。 イスラームがある程度広まりを見せたのは、マッカ開城の624年以降かと思われます。 あまりにも王朝末期過ぎますし、「昔々」と始まる話の登場人物がアッラーを信仰しているのは時系列的に無理があります。 一応『クルアーン』には、モーセ(ムーサー)やイエス(イーサー)もアッラーの啓示を受けて、アッラーの教えを広めていたと書いてはあるのですが……。 語り継がれた民話から発展した作品だけに、時代の手あかを感じます。 ○錬金術 簡単な説明は作中でしてしまっています。 実は本作、かつて無い程、錬金術の理論に忠実になっています。 どの程度忠実かと言いますと、国王の「金は希少で価値の高い物という、アッラーの決定を乱す」というような反応も、実際に錬金術への批判としてあったものです。 ですので、本項は補足説明になります。。 錬金術と言っても、錬金術師によって言っている内容にブレがありますが、本作では作中にも名前の出たジャービル・イブン・ハイヤーン(721-815)の理論を基にしています。 ジャービルが述べていない点について、例えば、賢者の石の作成時間や、賢者の石で変成できる金の量は別の人物による説明から取っています。 しかし、2点オリジナルに改変した点があります。 1点目は、ゴーレムの作成についてです。 ゴーレムは、本来ユダヤ教神秘思想のカバラが扱う物であり、錬金術の物ではありませんでした。 作中で、錬金術についてはハッキリ悟ったふうなのに、ゴーレムの作成は口を濁すのは、それが純粋な錬金術の技術ではないからです。 ですが、錬金術が地球を創世した神の御業の再現なのに対し、ゴーレムの作成は神が泥からアダムを作った御業の再現と理屈が非常に似通っていました。 実際に、似ているからという理由で錬金術はカバラと結びつきます。 ですが、それはヨーロッパでの事であり、作中の時代は12,3世紀を想定していますが、もう少し後のニコラ・フラメル(1330-1418)が最初かと思われます。 錬金術でも、人間を作成する技術はありますが、それはホムンクルスです。 ホムンクルスの製法は、2通り伝えられます。 1つは、硫黄と水銀と塩を人間に相応しいバランスで混ぜ合わせる事です。 これは、金の錬成が神が地球を作った御業の再現であるのと同様の理屈で、神が人間も作った御業を再現する方法です。 もう1つは、人間の精液を腐敗させて、それを復活させて作るという方法です。 こちらは、硫黄と水銀を熱するとできる黒い腐敗物を復活させて賢者の石を作る、という賢者の石の作成と同じ考え方です。 あるいは、この2つの製法は同じものを指しているのかもしれません。 即ち、人間の精液には、人間としてふさわしい硫黄と水銀と塩のバランスが含まれていると。 このホムンクルスではなく、ゴーレムを作中で出した理由は、ホムンクルスは小人という意味の言葉で、フラスコの中で作る程小さいからです。 そのサイズでは、労働力や戦力にするのは苦しいでしょう。 対して、ゴーレムの製法は、泥とニカワで人型を作り、額に護符を貼るというのが一般的です。 この護符にはヘブライ語で「emeth(真理)」と書かれており、その頭の「e」を消して「meth(死)」にするとただの土人形に戻るというのがゴーレムの弱点です。 この方法はアラビア圏らしくも無いですし、錬金術らしさにも欠けるので、作中での製法はゴーレムとホムンクルスのハイブリッドにしています。 なお、ゴーレムを召使いにしたというのは、アヴィケブロンこと、ソロモン・イブン・ガビーロール(1021?1022?-1058?1070?)です。 ソロモンは、今でいうスペインの人ですが、当時スペインのあるイベリア半島はイスラームの王朝が支配していました。 そんな訳で、アラビア語の著作が残されており、作中でもその業績が伝わっている事になっています。 ちなみに、ソロモンの天才性を示すエピソードとして、女性型のゴーレムを作成したというものがあります。 これは、単に土人形を女性型にしたという訳ではありません。 ゴーレムは神が泥からアダムを作った御業の再現という理屈に基づく事が分かると、女性型のゴーレムを作るとは、神がアダムのあばら骨からイヴを作った御業の再現であるという事が分かります。 つまり、ソロモンは世のゴーレム製作者の一段先を行っていた訳です。 なお、作中のアーダムと言う表記はアダムのアラビア語読みです。 イスラームでも旧約聖書は聖典として扱われるので、神がアダムを作ったというのはユダヤ教やキリスト教と共通しているのです。 もっとも、イスラームでは、旧約聖書の神はアッラーと読み替えられますが。 2点目の変更点は、賢者の石の人間に対する効果です。 賢者の石を飲むと、不老不死になるというのが普通です。 ただ、飲み方についてはいまいち分かりません。 賢者の石で不老不死になったという話で有名なサンジェルマンは、液化したとは言っています。 液化が液体に溶かすという意味だとして、溶媒は別にワインでなくても構わないと思います。 しかし、『クルアーン』で明確に禁じられているワインを選ぶことで禁忌感が出ると思い、そのようにしました。 なお、「至高の治療薬」を意味するアル・イクシールというアラビア語は、ヨーロッパに伝わり、エリクサーと呼ばれるようになります。 ○イスラームの奴隷制 これまで説明無しに繰り返し使ってきましたが、イスラームというのは、いわゆるイスラム教と同じ意味です。 アラビア語の発音に寄せると「イスラム」でなく、「イスラーム」となります。 そしてこの「イスラーム」はアラビア語で、「(神の教えに)帰依する、服従する」という意味です。 「教」という意味を内包しているので、「教」無しの「イスラーム」だけで通じるという事です。 別に「イスラーム教」と表記しても良く、好みの問題に近いそうです。 奴隷と聞くと、現代人はかわいそう、だとか非道だとか思いがちではないでしょうか? 実際、その通りだとは思いますし、擁護する気もありませんが、かつての文明が奴隷を必要としていたのを無視して、現代人の価値観だけで語るのも問題があるでしょう。 現代において、機械の労働力が無ければ社会が回らない様に、かつては奴隷の労働力が無ければ社会が回らなかったのです。 しかも、奴隷解放宣言が出されたのは1948年、奴隷という存在がいて当たり前と思われていたのはそう昔の事ではありません。 そんな奴隷のイメージといえば、農園で鞭打たれて働く黒人というのがステレオタイプではないでしょうか? イスラームにも、やはりそんな奴隷もいましたが、それは少数派でした。 『クルアーン』に、「奴隷に対して親切にせよ」や「奴隷解放は天国に行く善」と説かれていたため、他の文化圏と比べて大切に扱われたり、農園や鉱山等の過酷な職場に就かされる事も少なく、主人が亡くなる際には解放される事が一般的だったようです。 1970年代までには、アラビア半島の奴隷はほぼ全て解放されましたが、そうやって解放された奴隷の多くが、かつての主人に仕え、同じ仕事をした、というのはその待遇が悪くは無かった事を伝えているのではないでしょうか。 ただ、悪名高い奴隷貿易最盛期にヨーロッパ人に奴隷を売っていたのはイスラームだったり、ヨーロッパ人から白人奴隷を好んで買っていたのは付記しておかねばならないでしょう。 では、イスラームでは奴隷は何をしていたのかといえば、多くの奴隷は次の2種のどちらかの仕事に就いていたようです。 1つ目は、家内奴隷です。 家庭内の世話や、結婚して妻としたのです。 やはり奴隷という事で、性行為を迫られた際に拒否権はありませんでしたし、生きる術として他の選択肢も持てませんでした。 ですがその待遇はとても良く、正妻同様、というか奴隷を解放して正妻として大切にする事がごく普通にありました。 その子供も、元奴隷の妻の子として差別を受けるような事もほとんどありませんでした。 多少は言われる事もあったそうなのですが、そんな時は次の様に言えば相手は黙ったそうです。 「あのスルターンや、カリフの母親について知ってる?」と。 そう、政治的指導者や宗教的指導者ですら元奴隷の母から生まれたと言うのが当たり前の事だったのです。 現在日本で、「かわいそうな奴隷を助けて嫁にして可愛がる」ような流行があると感じますが、イスラームに言わせれば、「キサマ等が居る場所は既に――我々が1300年前に通過した場所だッッッ」となるでしょう。 2つ目は、軍人奴隷、中でも有名なのは作中で出てきたマムルークです。 マムルークは、主にモンゴル高原あたりにいた、トルコ人やスラヴ人が奴隷狩り等で連れて来られた者です。 スイス人傭兵や、インドのグルカ同様、高地民族の身体能力の高さが買われたのでしょう。また彼らは騎馬民族でもあり、馬術に優れるという利点もありました。 彼らは奴隷として買われた後、高い水準の教育とイスラームへの改宗を経てマムルークとなります。 奴隷狩りに遭ってと、その経緯は悲惨ですがマムルークとなった後の扱いは完全に別格でした。 領地が与えられ、統治者に対して影響力すら持つなど、その扱いは武士や騎士に近いものと考えて良いでしょう。 ムスリム(イスラーム信者)は奴隷にできないので、イスラームへの改宗に際して奴隷の身分から解放されました。 しかし、命令を強制される奴隷では無くなった後も、その待遇の良さに、それまでと変わらぬ忠誠を誓ったそうです。 更にはエジプトに、マムルークが支配者となる、マムルーク朝という王朝までも建ててしまいます。 奴隷が王にと、秀吉もビックリのサクセスストーリーです。 しかも、このマムルーク朝、基本的に世襲制ではありません。 このマムルーク朝の時に、モンゴル軍をアイン・ジャルードの戦い(1260)で破っています。 ただ、相手にしたモンゴル軍は一分隊にすぎなかったなどとも言われますが、モンゴルの西方拡大を止めた象徴的戦いであるのは確かです。 少数精鋭のマムルークに対し、黒人奴隷兵のザンシュは、練度こそ低いものの訓練のコストが低く数を集める事ができました。 マムルークは作中でゴーレムに対して行ったように、自分たちの利権や影響力を守る為に、ザンシュが勢いをつけると迫害や大量虐殺までしてその勢力を削ぎました。 そんなマムルークの終焉を告げたのは火器の発達でした。 マムルークは様々な武器を使いこなしましたが、フルースィーヤというアラブの騎士道にもとるとして火器は使用できなかったのです。 それに対して、フルースィーヤに縛られないザンシュは火器を使う事ができ、戦力におけるマムルークの優位性を揺らがせたのです。 更に国外の脅威が脅かします。 オスマン帝国の奴隷軍人イェニチェリはマムルークとよく似た立ち位置ながら、最新鋭の火器で武装しマムルークを撃ち抜きました。 その後に、歩兵騎兵に加えて砲兵を合理的に運用するナポレオンの侵略に遭います。 トドメは、エジプトの新総督ムマンマド・アリー(1769?-1849)でした。 エジプトの近代化を図るには、旧勢力のマムルークを一掃せねばならないと考えたアリーは、1811年に式典を装って招いたマムルークを殺害しました。 一掃後もまだ各地の有力者がマムルークを抱えていましたが、その後、政治的、社会的勢力を有するマムルークの集団が復活する事はありませんでした。 ○無意識 本編中ではとっつきやすくする為に「心」という単語をメインに用いましたが、内容的には「意識」とした方が適切です。 無意識という概念は、とても分かりにくいです。 なぜかと言えば、そもそも意識という概念が分かりにくいからです。 「哲学的ゾンビ」という、哲学用語があります。 哲学的ゾンビは、ホラー映画に登場するような動く死体ではなく、我々と同じような外見をした存在です。 人間との唯一の違いは、我々が、いえ僕が意識と考えるものを持っていない事です。 いかなる観察者によっても、この哲学的ゾンビと人間を見分けることが出来ません。 なぜなら、自分以外の対象に意識がある事を知る術が無いからです。 我々は、自分には意識があると感じています。 ですから、他の人にも自分と同じように意識があると考えています。 しかし、この意識を観測する事は非常に難しいのです。 脳に電極を刺したり、fMRIに入れても、特定の刺激に対して活性化する脳の部位は分かっても、意識が脳のどこで起こっているのかはよく分かりません。 そんなよく分からない意識ですが、とりあえず自分にはあるように思えるので、色々な分野が色々な状態を指して「意識」という言葉を使ってしまっています。 例えば、同じ医療ドラマでも「あの外科医、意識たけーな」という「意識」と、「患者の意識レベルが低下しています!」という「意識」では、指すものがそれぞれなんだかよく分からないけど、とりあえず全然違うものと感じるかと思います。 僕がここで持ち出したいのは、「統合情報理論」で言う「意識」です。 「統合情報理論」によると、「意識」があるものとは、  意識を生みだす基盤は、おびたたしい数の異なる状態を区別できる、統合された存在である。つまり、ある身体システムが情報を統合できるなら、そのシステムには意識がある。 (『意識はいつ生まれるのか』位置No.1505/3513) です。 これは、逆に意識が無い物を例に挙げた方が分かりやすいでしょう。 まず、区別という点についてです。 デジカメには意識がありません。デジカメのセンサーの1つが感知しているのは、特定の波長の光が有るか、無いか、有ればそれはどの程度の強さかという事です。 デジカメのセンサーにおける「暗い」は、そのセンサーが感知できる波長の光が無い事を指します。 この時デジカメのセンサーは、特定の波長の光が有る状態のみと区別して「暗い」としています。 それに対して、人間の言う「暗い」は、様々な色が見えない、人の顔が見えない、家が見えない……と、他のおびただしい数の異なる見える状態と区別しての発言です。 次に、統合についてです。 デジカメのセンサーは互いに独立しているので、バラバラに切り分けたとしても映る映像は変わりありません。 それに対して、人間の脳は一つの統合されたシステムですので、バラバラに切り分けると意識は失われてしまい、人間は映像を認識できなくなってしまいます。 何となくお分かり頂けたでしょうか? より分かりやすくする為に、そして、無意識の話に繋げるために、たとえを引用させて頂きます。  差異と統合が同時に成り立つということがいかに難しいかを理解するために、病院にたとえてみよう(厳密なたとえではないが)。ある臨床例を成功に導くには、治療にあたる医療チームが、専門医の集まり(それぞれが、その専門分野で最も優秀な医師)であることが望ましい。その一方、専門医のあいだで、効率のよい意思の疎通が必要になってくる。よくコミュニケーションをとり、あらゆる要素を考慮に入れてはじめて、チーム内の全員が納得する診断を下せるのだ。実際のところ、優秀な専門医を集めるのはそれほど大変ではない。それぞれの分野の最先端の診断用機器をたずさえ、ある特定の器官の働きをよく理解している医師を、ある程度そろえるのはわりとたやすいのだ。だが、ある医学分野に特化して研究を進めている専門家が集まったところで、互いの話をよく聞くとか、理解しあうとかいうことができるかというと、そうとは限らない。むしろ、一般医の集まりのほうが、話は早いかもしれない。だがそうなると今度は、さまざまな情報や診断が、参考にもされない危険性がある。高度な専門化と完全な意思疎通の両立、いいかえれば情報と統合の共存は、どんな分野においても、決して簡単ではない。それが、個人的な問題でも、政治の世界でも、生物学の話でも、人間社会の組織のことであっても。 (同位置No.1524-1535) さて、無意識の話をするにあたって覚えて頂きたいのは、引用文中に出て来た「統合が個人的な問題でも難しい」という事です。 本作で、「無意識」という語で示したのは、「意識が無い状態」ではありません、意識による統合の必要が無い、「統合が自明な状態」です。 それってどういうこと? という疑問が当然出るだろうと思いますので、近い意味で「無意識」を使った例文を挙げてみます。 それは、「初めて自転車に乗った時には何度も転んだけれども、今では無意識に乗れる」という文です。 初めて自転車に乗った時の事を思い出してみてください、恐らくとても不安で、不安定で、何度も転んで痛い目をされたのではないでしょうか? 僕はそうでした。 慣れない事をするというのは大変なものです、倒れないようにバランスを取って、ぶつからないようにハンドルを切って、前に進むようにペダルを漕いで、下を見ないで進む方を見て、何かあった時すぐブレーキを握るように気を付けて、と色々な事に注意が必要でハンドルを握る手に汗をかきました。 ところが今では、そんな事全く考えません、考えないでも出来てしまいます。それどころか、今日の夕飯何にしようか等と全然関係無い事を考える余裕すらあります。 なぜこんな事が出来るかというと、経験によって脳内に自転車に乗る為のネットワークが構築されたからです。 言い換えれば、「意識するまでも無く、自転車に乗る為の体の使い方の統合が自明」になっていたからです。 本作で言う、「無意識な人間」と言うのは、「区別や統合出来無い人間」では無く、「自明に正しい選択をする人間」の事です。 自転車に乗る時に、右に曲がるには左手を前に出して、右手を引かなきゃと意識しないように、歩く時、次は右足を出さなきゃ、逆側の手を出さなきゃと意識しないように、正しい選択をするのに意識せず、自明に選び取るのです。 意識有る我々は、選択を迫られた時、分かっているのに間違った選択をする事が多々あります。 例えば、「勉強や仕事をしなければならないのは分かっているけど、後少しだけゲームしたい」だとか、「あの人が言っている事は正しいのは分かっているけど、言い方が嫌だから従いたく無い」などと。 無意識な人間とは、その選択が感情に左右されず正しいからやる、と自明なのです。 正しい選択とは言いましたが、正確に言えばその人物の知識や経験から正しいと判断できる事です。 無意識な人間にとって選択とは、「1.2^3×3と1×6では、どちらが大きいか?」という質問をされているようなものなのです。 知識や経験が足りず、「×」だとか、「.」だとか、「^」が分からなければ、当然間違った選択をする事もあるでしょう。 しかし、教育や経験によって正しい判断をするようになります。 無意識な人間には、非常に多くの利点があります。 まず第一に、選択を誤らない事です。この点は言うまでもないでしょう。 第二に、選択に関してのストレスが無い事です。 我々には、「タカシ! ゲームばっかりやって無いで勉強しなさいッ!」という「オカン問題」から、「5億年ボタン」、「トロッコ問題」まで、選択を迫られる事それ自体に様々なレベルのストレスが付きまとうかと思います。 しかし、無意識な人間には選択に関して、計算があるだけで逡巡が無いのでストレスが無いのです。 第三に、人間関係がとても円滑になります。 社会に生きる人間の感じるストレスの9割以上は、人間関係に起因するものだそうです。 なぜそんな事が起きるのかと言えば、自分は自分のストーリーを知っているから、と言うのが一番の理由でしょう。 自分はこうして来た、ああして来た、というストーリーを知っていますし、そのストーリーを無駄にしたくないという気持ちを持った人間同士がぶつかるので、どちらも譲らないのです。 天動説から地動説へのパラダイムシフトが、どのように行われたのかご存じでしょうか? 答えは、若い学者は天動説を支持しており、天動説を信じる老人が全員死んだからです。 観察結果に忠実であるべき科学者(正確には自然哲学者)ですら、死ぬまで自分が信じたストーリーが間違えだったと認めれなかったのです。 その様に論理的な事実を突きつけられてさえ、自分の心を曲げるというのは難しいものです。 ですが、無意識な人間同士ですと、その判断はとても自明で、お互いにちょうど裁判官の様な、第三者の立場で問題を見る事になるのです。 ところで、バビルサという動物をご存じでしょうか? インドネシアに生息する、イノシシの仲間なのですが、その牙がとても特徴的です。 下顎の牙が大きいのはありがちな特徴ですが、このバビルサのオスは上顎の牙も上向きに大きく伸びています。 その様に進化したのは、上顎の牙が立派な方がメスにモテるかららしいです。 このバビルサ、「自分の死を見つめる動物」と言われています。 なぜなら、この上顎の牙は自分の脳天に向かって生えており、伸びすぎると牙が脳天を貫いて死んでしまうからです。 ……と言うのはデタラメで、実際は頭蓋骨の方が牙よりも硬い為、頭蓋骨にぶつかると牙はクルっと曲がって伸びます。 自分を殺すような進化をしていたら何ともマヌケな話でした。 ですが、実はそんなマヌケな進化をしている動物がいます。 それは、ホモサピエンス、つまり人間です。 人間の脳は、今まで恐らく何千万、下手をすると億単位で人間を殺して来ました。 これは、人間の脳が大量破壊兵器を生んだとか言うようなありがちな話では無く、とても物理的な話です。 人間の胎児の脳は、母親の産道に対して大き過ぎるのです。 今でこそ、医学が進歩して日本の出産死亡率はほぼ0%まで低下していますが、ひと昔前まで出産の際に母子のどちらか、もしくはその両方が亡くなるのはそう珍しい事ではありませんでした。 その大きな原因は2つあります。 1つは、二足直立歩行によって、女性の腰回りが狭まり、産道も狭くなった事です。 そしてもう1つは、胎児の身体の一番太い部分、つまり頭であり、その中に収められた脳の大きさです。 なぜ脳がそんなに大きいのかと言えば、それは人間の脳が、人間に最適化された物では無いからです。 人間の脳は、「非常に良く出来た機械」などと思われがちですが、実態はスマートさとはかけ離れた物です。 人間の脳は、進化の結果出来上がった物です。 つまり、「人間の体がまずあって、それを動かすのに最適な脳をデザインした」のでは無く、「進化の過程でその場しのぎに、有用な機能を付け足していった」結果の産物というわけです。 そんなわけで、今となってはほぼ不要な機能を残しながら、無様な増築を重ねた、無駄に大きく、無駄にエネルギーを必要とする構造をしています。 また、人間の遺伝子の約70%が脳に関する物ですが、実はそれだけでは他の生物の脳を記述する様には人間の脳を記述できません。 では、どうやって脳を作るのかと言えば、記憶に関わるニューロンやグリア細胞で満たしたパターンをコピー&ペーストするように作ると考えられています。 そして出産後、外界からの刺激が与えられる事によって、その刺激に必要なニューロンを残し、不要なニューロンを消すという作業を経てようやく完成します。 その多様性を持ちうる仕組みが、ホモサピエンスという種の強さに繋がったのでしょう。 ただ、胎内で脳を完成させていれば、不要なニューロンを作らずに済み、もっとコンパクトな設計にできたはずなのです。 そうした方が、一個体としては生存にはるかに有利なのは間違いないでしょう。 ちなみに、このニューロンの消去は思春期頃までに行われます。 言語や絶対音感は若い頃でないと身に着けるのが難しいとか、芸事は早く学んだ方が有利とか言われるのは、この為です。 こうした脳の特性が、人間を万物の霊長たらしめ、科学や文化を発展させて来たのは確かでしょう。 しかし、その機能の全てが必要でしょうか? 例えば、盲視という機能があります。 この機能によって、盲目の人間でも目の前にある、位置を認識できていないはずの物を掴む事ができます。 この機能は、両生類だった頃には必要でしたが、高度な視覚を獲得した現在においても必要でしょうか? 盲視がある事のメリットは、その機能に割くエネルギーのデメリットに勝るものでしょうか? 現状にそぐわない機能は案外あります。納得が得られそうなものですと、脳の機能ではありませんが、自分の身体に対し「花粉に対して過剰に反応する機能無くせ」と思っている方はかなりの数にのぼるのでしょう。 かつて両生類だった頃に必要だった機能がありました、かつてサルだった頃に必要だった機能がありました、かつて狩猟採取をする小人数のコミュニティで生活していた頃に必要だった機能がありました。 そういった機能の中に、現在のグローバルな社会を営む人間に不要な機能は、あってもおかしくないのではないでしょうか? 特に科学革命以後、文明は加速度的に発達し、のんびりした遺伝子的な進化を完全に置いてけぼりにしてしまっています。 未だにサバンナで生きているつもりの脳に、こう言ってやるべきかもしれません、「お前それ日本でも同じ事言えんの?」と。 本編中でも出しましたが、過食に走らせる本能が、現代日本で生きる為のシステムとしてふさわしいと思われますか? サルは、せいぜい100頭ほどの群れしか作りませんが、文明化された人間の社会の規模は桁が異なります。 それなのに、「人間が円滑に安定して維持できる関係は150人程度である」というダンバー数が適用されてしまうような脳の機能のままで良いのでしょうか? 文明化によってそんな規模の社会性を迫られる人間は、脳の機能も生息する社会に合わせて進化させるべきではないでしょうか? そういった不要な機能の1つに、感情だとか、意識などという機能は挙がらないでしょうか? 少なくとも、AIは感情や意識といった機能無しに、高度な知性を発達させています。 AIが人間に勝つ事は永遠にあり得ない、と言われていた将棋でも、AIが人間よりも正確な判断を下し、勝利したのも久しい話です。 無意識化というのは、進歩の上で言えば「判断の外注」です。 水を汲んだり、動物を狩ったり、米を育てたり、食料を調理したり、服を作ったり、家を建てたり、と生活に必要な様々なことを外注に出すことで人類は進歩してきました。 目的地に体を運ぶことをAIによる自動運転車に外注するように、判断する権限を意識や感情といった不確かな機能から取り上げて外注に出すのは、とても合理的とは思われませんか? 少なくとも、軍や企業といった非常に合理的なものにとって、知能は必須ですが、意識はオプションに過ぎません。 おそらく神などと言うものは居ません、空間を満たしていると信じられていたエーテルも存在しませんでした、ダーウィンの進化論が執拗な攻撃を受けるのは審判の日に立ち会うべき不滅の魂という概念と相容れないからです。 現在、我々はニューロンやグリア細胞が織りなすパターンについて、よく分からないので、とりあえず「心」だとか「感情」、あるいは「意志」、「意識」と呼称しています。 もしそれが、ランダム性を持つ学習型アルゴリズムに過ぎないと解明されれば、かつて存在すると信じられていたもののリストに、心も追加されるのかもしれません。 そんな脳の機能に、アイデンティティーを求めるべきでしょうか? 科学的な貴方、脳とかいう無駄の多い器官にインストールされたナントカMillennium Editionとかいう、時代遅れのクソOSをアップデートされてはいかがでしょうか? ○幸福論 「幸福」というのは、前項の「意識」同様に分かりにくい概念です。 例えば、「幸福って何?」と問うと、次のような答えが返ってくる事が多いと思います、「そんなの人それぞれだよ」と。 そんな回答は、理性的でも科学的でも無く、正直ただの思考放棄です。 しかし、なぜこのような回答になりがちなのかと言うと、理由は2つあります。 1つは、欲の対象が人それぞれだからです。 人は欲が満たされた際に幸福を感じますが、欲の対象は人それぞれ異なります。 金、恋人、衣食住、職、地位、進学とまあこの辺りはおおよそ共通しがちですが、趣味や性癖となると本当に人それぞれです。 たとえば、過酷な状況でアイロンをかける「エクストリーム・アイロニング」というスポーツ(?)があります。 (極々一部では)究極の癒しが得られると言われています。 しかし、おそらくは水深100mや、高度6959mのアコンカグアの山頂でシャツのシワを伸ばす幸福に共感できる方は稀でしょう。 2つ目の理由は、幸福というのは客観的な問題ではなく、主観的な問題だからです。 これは、「この閾値を超えれば幸福だ」と言える客観的な基準点が無いという事です。 先程、挙げた普遍性を持つ欲の対象である金を例に挙げたいと思います。 多くの方は100万円もらえれば、とても幸福に思い、何を買おうかとウキウキしながら思いをめぐらせるのではないでしょうか? では、同じ100万円をジェフ・ベゾスに渡せば、彼はその事を幸福に感じるでしょうか? ジェフ・ベゾスというのはAmazonの創業者兼CEOで、2020年の時点で世界一の大富豪です。 参考までに彼の2019年の給料は、約28万円。 これは、年収を365日で割ったものを、24時間で割ったものを、60分で割ったものを、60秒で割った値、つまり寝ている時間も含めた「秒給」です。 果たして、4秒以下の価値の金をもらって、我々と同等の幸福を感じれるでしょうか? では、「幸福」とは何ぞや、という話題に進みたいと思いますが、この「幸福」という「まともな」感性の持ち主なら「そんなの人それぞれだよ」で済ます問題を精神を病んで不幸になるまで考え続けたヤベー奴らが存在します。 それは哲学者です。 哲学において、「幸福論」という言葉は、次の3通りの意味で使われるように感じます。 (1)幸福の定義について論じるもの(ex.森村進『幸福とは何か』) (2)(1)を承けて、実生活での折り合いとなる妥協点を論じるもの(ex.ショーペンハウアー『幸福について』) (3)幸福になる為のアドバイスを論じるもの(ex.アラン『幸福論』) 本項で扱うのは、(2)です。 「(1)では無いのか?」と思われるかもしれませんが、幸福の定義について最大公約数的な定義があるのでそれが分かれば十分かと思います。 (1)については、微細かつかなりの深みが待っているので気になる方だけ、参考文献をご参照ください。 幸福の定義ですが、たいていの方は次の2点を満たすものが幸福であるという事で納得いただけるのではないでしょうか? (1)欲が満たされている事 (2)不幸が無い事 人は、欲が満たされる事で幸福を感じますが、不幸があると幸福を感じる事ができなくなります。 恋人ができて喜んでいたら、重い病が発覚して喜べなくなって……などというのは、よくあるストーリーでイメージしやすいかと思います。 では、幸福になるにはどうすれば良いのかといえば、(1)については哲学者の回答はほぼ一致します。 すなわち、欲を少なく持て、少しの物で満足しろと。 欲が満たされる事で幸福を感じるのならば、その閾値を下げてやれば良いのです。 (2)については、例で挙げたショーペンハウアーのものが分かりやすいかと思います。 ショーペンハウアーは、「健康であれ、孤独であれ」と述べます。 病気やケガが幸福を感じることを妨げるのは想像しやすいかと思います。 「健康であれ」、というのは病気やケガという不幸を遠ざけよという意味です。 それに対して、「孤独であれ」というのは分かりにくいのではないでしょうか? 一般的に、交友関係の広さは財産だとか、幸福に直結するだとか考えられがちです。 ショーペンハウアーが「孤独であれ」と言ったのは、分かりやすく言い直せば「精神的に健康であれ」ということです。 交友関係を持つとしがらみが増えて、しがらみは悩みを生み、自由を減らしてしまうと考えたわけです。 実際、人間が感じるストレスの90%以上が、人間関係に起因するとも言われることがあります。 ショーペンハウアーが言うように、孤独に耐えることに慣れ、孤独を愛する人は精神的に健康なのかもしれません。 まとめますと、「欲を少なくし、心身共に健康であれ」というのが、おおむねの哲学者の考える幸福の実践法なのです。 そのように考えると、意識の無い、判断が自明な社会というのは非地上的な、宗教的な要素を持ち出さない幸福の妥協点として、とても良いものかもしれません。 その社会において人々は、際限の無い欲を満たす為でなく、際限の有る必要を満たす為に活動します。 「私の為に」と考える意識が無く、コミュニティーの決定の合一が自明に行える社会は、孤独にならなくても人間関係に起因するストレスを生じさせにくいでしょう。 実は、このような社会は非常にユートピア的です。 ユートピアというと、「その場所の力によって、住人が幸福になれる場所」と思われがちではないでしょうか? しかし、ユートピアという言葉を作った、トマス・モアの『ユートピア』で書かれるユートピアはそのイメージとは異なります。 トマス・モアのユートピアは、現地民しか近づけない絶海の孤島に過ぎません。 ユートピアを理想郷たらしめているのは、住民の人格の高さです。 土地の力は、人格的に優れた住民を、外部の人格的に劣った人間から守っているだけです。 意識の無い、真に社会的な人々と外部からの干渉を防ぐ峻険なコーカサス山脈は、第2のユートピアと言えるのではないでしょうか? そんな一種の理想形である意識の無い社会ですが、文化の面では停滞、あるいは衰退するかもしれません。 無意識な人間は、美味しいから食べるのでは無く、正しい選択だから食べ、欲しいから買うのでは無く、正しい選択だから買うからです。 その様に、過剰な欲求が廃されると、現在以上の水準を求めようとする発展の需要は薄れ、文化や技術の発達を遅らせるでしょう。 ですが、それも幸福な事かもしれません。 化学的に言えば、幸福とはセロトニンの分泌であり、その濃度の高さが幸福の強度です。 今までの文化や技術の発達は、セロトニンの濃度を高めたりはしませんでした。 なぜなら、人間は比較をして幸福や不幸を感じる動物だからです。 先にも述べましたが、幸福というのは、客観でなく主観であり、他の誰かや過去の自分と比較してそれらの人が持っていない何かを持っているから、あるいはより多く持っているから感じるものです。 不幸というのは、他の誰かや過去の自分、理想の自分と比較して、それらの人が持っている何かを持っていないから、あるいは持っている量が少ないから感じるものです。 そして比較対象となるのは、常にその時代の平均であったり、知人であったり、より優れている人なのです。 果たして、12世紀の人々と比べて衣食住に恵まれているから、現代の我々は幸福だと思えるでしょうか? 12世紀の人と、19世紀の人を比べてみろと言われたならばいざ知らず、自分自身と前時代の人々とを比較して、より物質的に恵まれているから自分は幸せだなんて感じれないと思います。 戦争体験者の方々に「お前達は幸せだ、本当に恵まれている」と言われて幸福だと感じれるでしょうか? そういった方々が、大変な思いをされてきた事は重々承知で申し上げさせて頂きますが、そんな比較によって幸せだとは思えないでしょう。 我々の比較対象はあくまで、現在の誰かか過去の自分なのです。 仮に第二次世界大戦経験者も、16世紀の南米の人々に「あなた方の世紀の暴力による死亡率はせいぜい5%。それに対して我々は会見の場で王を人質に取られ史上最高額の身代金を支払ったにも関わらず、王は殺されました。我々の戦士も銃と騎兵と金属製の武具の前にはなす術もありませんでした。トドメはスペイン人の持ち込んだ疫病です。我々の40%以上が死にました、それもたった3ヶ月の間にです。疫病は留まる事を知らず、2000万人にのぼったアメリカ大陸の人口も、1580年に生き残っていたのは10%未満です。それに比べて、あなた方はさぞお幸せな事でしょう」などと言われても、恐らく幸福だとは思えない事でしょう。 そして、それどころか文化や技術の発達は、不幸をもたらす事すらありました。 大量破壊兵器の開発等を言うのではありません。 メディアや広告の発達による比較対象の強大化です。 今や我々がイケメンだの、何かを持ってるだの、何かに優れているだの名のろうには、町内のような狭いコミュニティの誰かではなく、ネットやテレビに出る全国選りすぐりの誰かを相手にしなくてはなりません。 広告も、魅力的な商品や経験を紹介して、それらを持っている自分と、持っていない自分の比較を迫ってきます。 別にそれらの善悪を論じるつもりは無く、それらはそういうものだというだけですが、比較対象が強化されたのは事実でしょう。 セロトニンの分泌という点で見れば、技術や文化の発展は必ずしも良いものとは言えないかもしれません。 デカルトの「我思う故に我あり」という言葉は非常に有名です。 疑って、疑って、疑い抜いて、神すら疑っても疑い切れなかったのが「我」という概念。 しかし、「私は私である、私でしかない」という進化したサルの頭にこびりついた固定観念は捨て去り、「私は私とは限らない、もっと幸せな私になれる」という認識に至るのが科学的な、化学的な、理性的な、社会的な、哲学的な賢い道なのかもしれません。 そんな社会は、とても理想的で、とても幸福だとは思われませんか? まあ、僕は違う哲学的立場の人間なので、意識が無くなるとかご免願いますが。 なお、もし幸福論について自分で調べたい方が居るようでしたら、僕としては、その前に苫野一徳の『はじめての哲学的思考』を読む事をオススメします。 ○参考文献一覧(およそのジャンルごとに並べてあります、参考にされる際は同ジャンル内で出版年の新しい物がおススメです) 引用文での位置No表記はKindle版準拠です。 ・『バートン版千夜一夜物語』  リチャード・F・バートン著,大場正史訳,ちくま文庫,2003 ・『The Thousand and One Nights, Vol. I』  Edward William Lane訳,1912  Project Gutenberg  http://www.gutenberg.org/ebooks/34206 ・『世界史の中のアラビアンナイト』  西尾哲夫,NHK出版,2011 ・『アラビアンナイト』  西尾哲夫,岩波新書,2007 ・『必携 アラビアン・ナイト』  ロバート・アーウィン著,西尾哲夫訳,平凡社,1998 ・『アラビアン・ナイトの世界』  前嶋信次,平凡社,1996 ・『アラビアンナイトを楽しむために』  阿刀田高,新潮文庫,1986 ・『七つの夜』  J・L・ボルヘス著,野谷文昭訳,岩波文庫,2011 ・『アラビアの夜の種族』  古川日出夫訳,角川書店,2001 ・『アラビアン・ナイトメア』  ロバート・アーウィン著,若島正訳,国書刊行会,1999 ・「商人と錬金術師の門」  テッド・チャン著,大森望訳  『伊吹』/『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』収録 ・『錬金術の秘密』  ローレンス・M・プリンチーペ著,ヒロ・ヒライ訳解題,勁草書房,2018 ・『錬金術』  アンドレーア・アコマティコ著,種村季弘,創元社,1997 ・『図解 錬金術』  草野巧,新紀元社,2006 ・『錬金術師』  F・シャーウッド・テイラー著,平田寛・大槻真一郎訳,人文書院,1978 ・『ルバイヤート』  オマル・ハイヤーム著,小川亮作訳,岩波文庫,1949  青空文庫  https://www.aozora.gr.jp/cards/000288/card1760.html ・『アラブの人々の歴史』  アルバート・ホーラーニー著,湯川武監訳,阿久津正幸編訳,第三書館,2003 ・『イスラーム思想史』  井筒俊彦,中央公論社,1991 ・『歴史図解 中東とイスラーム世界が一気にわかる本』  宮崎正勝,日本実業出版社,2015 ・『ハサン中田考のマンガでわかるイスラーム入門』  中田考・天川まなる著,株式会社サイゾー,2020 ・『イスラーム史のなかの奴隷』  清水和裕,山川出版社,2015 ・『アラビアン・ナイトの中の女奴隷』  波戸愛美,風響社,2014 ・『マムルーク』  佐藤次高,東京大学出版会,1991 ・『十三世紀のハローワーク』  グレゴリウス山田,一迅社,2017 ・『アラブの格言』  曽野綾子,新潮新書,2003 ・『補給戦』  マーチン・ファン・クレフェルト著,佐藤佐三郎訳,中央公論社,2006 ・『脳はいいかげんにできている』  デイヴィッド・J・リンデン著,夏目大訳,河出書房新社,2017 ・『意識はいつ生まれるのか』  マルチェッロ・マッスィーミ/ジュリオ・リノーニ著,花本知子訳,亜紀書房,2015 ・『あなたの知らない脳』  デイヴィッド・イーグルマン著,太田直子訳,早川書房,2016 ・『脳科学は人格を変えられるか?』  エレーヌ・フォックス著,森内薫訳,文藝春秋,2014 ・『サピエンス全史』上下  ユヴァル・ノア・ハラリ著,柴田裕之訳,河出書房新社,2016 ・『ホモデウス』上下  ユヴァル・ノア・ハラリ著,柴田裕之訳,河出書房新社,2018 ・『21 Lessons』  ユヴァル・ノア・ハラリ著,柴田裕之訳,河出書房新社,2019 ・『幸福とは何か』  森村進,筑摩書房,2018 ・『幸福とは何か』  長谷川宏,中央公論社,2018 ・『幸福はなぜ哲学の問題になるのか』  青山拓央,太田出版,2016 ・『幸福について』  ショーペンハウアー著,橋本文夫訳,新潮社,2016 ・『幸福論』  B・ラッセル著,堀秀彦訳,角川ソフィア文庫,1952 ・『幸福論』  アラン著,神谷幹夫訳,岩波文庫,1998 ・『不幸論』  中島義道著,PHP研究所,2015 ・『ユートピア』  トマス・モア著,平井正穂訳,岩波文庫,1957 ・『ユートピアの歴史』  グレゴリー・クレイズ著,巽孝之監訳,小畑拓也訳,東洋書林,2013 ・『そこにシワがあるから』  松澤等著,早川書房,2008 ・『ハーモニー』  伊藤計劃,ハヤカワ文庫,2014