A.彼女の二日前 『国選セックスパートナー制度 名簿記載のお知らせ』  市役所からだ。私宛に親展の封筒が届くなんて初めてで、思わず裏表とひっくり返してまじまじ見つめる。買い物袋を下ろし靴を脱ぎながら、糊付けされた封を破くように開けていく。   『このたび、あなたは、抽選の結果に基づいて、国選セックスパートナー名簿に記載されましたので、お知らせいたします』  ニュースで聞いたことある。少子化対策と健全な青少年の育成と……後はなんだったか。そういう小難しい事をコメンテイターがしたり顔で言っていた、と思う。料理しながら聞き流しだったから、詳しく覚えてないけど。    私なんだ。    忙しいのに、というのが第一印象。お母さんは介護の仕事で週に何回か必ず夜勤があって、それでなくても仕事に手いっぱいで家の事が出来ない。だから掃除も洗濯も料理も、基本的に私が担当だ。    それに、週に二回は『彼』との図書当番もある。    台所の、古くていつもじーじー唸ってる冷蔵庫にその手紙を張り付けて、買った食材を放り込んでいく。牛乳、卵、ブロックベーコン。チルド室に入れるものを入れたら後は下の野菜室で、ジャガイモや玉ねぎを突っ込みながら手紙をチラ見で読んでいく。二カ月の間、パートナーと週に一回以上性交渉をしなければいけないらしい。偉い政治家の人たちから見たら、私みたいな子供は毎日暇を持て余しているように思われているんだろう。失礼な。  一番最後には仰々しく『小玉すず』という私の名前、それに初エッチの相手になるパートナーの名前が書かれていた。  野菜室を閉じて次は冷蔵。  そのタイミングで目に入った名前が脳みそをひっかく。  冷凍室を開けるのと同時に、私はもう一度、その手紙を見る。冷凍の加工済みほうれん草を冷凍室に入れて、手紙を手に取り、その名前の頭から終わりを何度も往復する。    同姓同名の別人。  一瞬、そう思った。だけど名前と一緒に町名までの住所と年齢、その上、学校名まで書いていて、さすがにそこまで一致している別人はいないと思う。  彼の名前がそこにあった。    ぴぴぴ、と冷蔵庫が文句を言う。はっ、と我に返った私は残りを全部放り込んで冷凍室を閉じる。いつもの習慣で買い物袋を小さく縛り、壁に下げた紙袋の中に入れた。私は手紙をまた最初から読み直し、また彼の名前に行きつく。    週一回以上の性交渉。    目を上げるとキッチンタイマーにもなるデジタル時計があって、ちょうど18:07から18:08に切り替わったところだった。水曜日はいつもこの時間だ。買い物の日だし、それに、図書当番もあるからいつもより遅くなる。    つい2時間と少し前まで、私は彼と話していた。    テストと本と小学校の給食の話。先週の中間テストが返ってきていて彼は特に数学が散々だったらしい。私が前に読んでいた本を彼も読んだみたいでそれの感想。あと、なぜかは覚えてないけど小学校の頃に好きだった給食のメニューの話になって、彼はグラタンが好きだと言っていたけど私はどうしても給食にグラタンが出た記憶がなくそれがどんなものか何回か聞き直した。彼はお喋りが好きみたいで、それに本の趣味も合うようだった。陰キャ丸だしな返事しかできない私に、いつも話しかけてくれる。    そんな彼が、私の初めての相手。    クラスの女子がよく話している、何組の誰々がカッコいいとかいう話。彼はたまに名前が上がる一人で、図書室に来る女子の中には本じゃなくて彼に興味があるんだろうなって子が何人かいる。  彼から今付き合ってる人の事や、今まで付き合っていた人の事は聞いたことが無かった。でも私の相手として彼の名前が書かれているという事は、つまり今も昔もそういう人はいなかったのだろう。国選セックスパートナー法に選ばれる人は性交渉の無い人、そう書いてあった。    もったいない。  そう思うと同時に、私なんかでいいのかと不安になる。    私が相手と知って彼は嫌じゃないだろうか。もっと可愛い子も、愛嬌がある子も学校にはたくさんいる。それなのに、何も知らない大人の勝手なくじ引きの結果、私なんかが相手になってしまうなんて。  それに。  もし、もし仮に、私でもいいと彼がそう思ってくれてるとして。その後はどうなるのだろうか? 週に一回以上の性交渉、それが二カ月も続いたその後、今ある生活が……週二回の図書委員の時間が壊れてしまわないだろうか? 彼と二人っきりになれるあの静謐な空間が心地よかった。それが、何か決定的に別の物になってしまったら……。   「……はぁ」  膨れ上がった不安がため息になってあふれ出る。だめだめ、と首を横に振る。ぐるぐる考えて勝手に落ち込むのは私の悪い所だ。  流し台には朝ごはんの洗い物が溜まっている。とりあえずそれを片づけて、夕飯を作ろう。    今日はグラタンだ。   B.彼の二日前  やばいやばいやばい。  もう何度も読んだ封筒をまた読み返す。何度見ても一番最後には小玉さんの名前が書いてある。そしてどう解釈しても、初めてを小玉さんとしなさいと、そう命じられている。政府直々に。    最初に見た時から可愛いと人だと思っていた。図書委員の顔合わせじゃない。入学式の時だ。もちろんその時は名前なんか知らなかった。その時の小玉さんは、違うクラスの前髪が長く胸の大きいあの子でしかなかった。  まさか、当番が面倒だからとろくに名前も覚えていないクラスメイトに押し付けられた図書委員で一緒になるなんて、その時は思ってもいなかった。  仲良くなりたかった。    小玉さんが読んだ本は俺もできるだけ読んでいつでも話せるようにしたし、図書室のカウンターの内側でお互い本を読んでいる時は正直全然本に集中なんてできなかった。長く伸びた前髪の下にある丸い瞳と、それに……制服を押し上げる胸にばかり目が行って始終ドキドキしていた。    国選セックスパートナー法。  政治に興味なんてなかったし、そもそもテレビなんて見ないから、こんな法律が出来た事も知らなかった。でもありがとう! 政治家の先生たち。選挙出来るようになったら一票でも百票でもこれを作った人に入れるからさ。清き一票じゃなくてごめんね。    俺は想像する。小玉さんが来ている制服を一枚一枚逃がすところを。ワイシャツのボタンに手をかけ、前髪に隠れたあの目とちらちら視線を交わしながら脱がし、そしたらそこには服越しにしか見る事の出来なかった聖なる山脈が二つ連なっている。彼女は甘い声で「好きにして♡」と言い、俺もまた甘ったるい声で「うん♡」と言って……。    :::    丸めたティッシュをゴミ箱に投げたら見事に外した。ベッドから腰を上げ、床に転がったそれを入れ直した瞬間、急に不安が襲い掛かる。    図書当番の時、俺はつまらない事でも何でも、話せるネタを総動員して小玉さんに話しかけるようにしていた。図書委員の仕事なんかよりずっと必死で、そのせいで毎回どんな利用者が来ていたかもよく覚えていない。  だけど正直、あまり楽しんでるようには見えなかった。『私、表情に出ないから』と、前そう言っていた。相槌は打ってくれるし、会話もある程度は成立していると思う。だけど、俺の事をどう思っているかは、本当、これっぽっちも分かっていない。  俺でいいのだろうか。  他にもっとふさわしい人が。    勝手に落ち込んで、でも小玉さんの事を思い出したらまた愛おしさといかがわしい感情が持ち上がる。頭を抱えてもだえ苦しむ俺の目に、机に置かれたデジタル時計が見えた。    18:07から18:08に切り替わったところだった。