【鬼雨、それとも喜雨】 どちらかと言うと、苦手な先輩だった。同じ剣道部にいるのに、あんまり関わらない人。 道着と袴に防具をつけて、竹刀を持てば。その長身も相まって、ものすごく強そうに見えるのに。 実際は背が高いだけで見掛け倒し。練習も試合も本気でやってるとこなんか見たことがない。 でも、手合わせをしたら、ときどき。なぜだかすごく威圧感を感じることもあって。きっとこの人が本気を出したら、僕は勝てないだろうなって思ってた。それはたぶん本能的に。 その日は部活の途中から、雨が降っていて。 帰るときには止むかな、って思ってたのに、止まなくて。 部活が終わって武道場を出たところで、僕はため息をつく。 めんどくさいけど、折りたたみの傘。教室に置いているの、取りに行こうかなって考えてたときだった。 「うわー、降ってんなー」 僕の隣にあの人が並んだ。どうやらこの人も傘を持っていないらしい。絶対、折りたたみの傘なんかも、用意してないだろうな。 この人は、道着を脱いだらひょろ長い。ぼーっとしてたり、してなかったり。ちょっと長めの髪は、先生に何度か注意されてたけど、返事ばかりで切る気もなさそうだった。 実は僕の同級生の女の子が。この人のこと好きって言ってて。情報よろしく、なんて言われてはいたんだけど。 僕は結局大したことは、知ることはできないまま。 なんとなく、今なら。何か、さり気なく聞けるかもって思って。それで、口を開こうと、僕は横を向いた。 そのとき。 「お」 見上げたあの人の横顔が、うれしそうにほころんだ。 こんな表情、今まで見たことないかもと、僕はぼんやり思う。 視線を追ったら、校門の方から、女の子が歩いて来るのが見えた。うちの学校の生徒ではない。誰だろう。 明るい花柄の傘。そして片手にはたたんだ黒い傘を持っている。 女の子がこちらに手を振って、この人も、ぞんざいに振り返す。 ああ、この人に、あの傘を届けに来たんだな。 僕は即座にそう、理解する。 彼女? ううん、違う。 お兄ちゃん、って呼ぶのが聞こえた。 雨の中でも輝く声の色。 お兄ちゃん、って。なんて、しあわせそうに呼ぶんだろう。 なんか、いいな。 僕は自分の心臓が、ぎゅっとなるのを感じた。 「傘なんていいのに。わざわざ来た? はいはい、ありがと」 すぐそばに来た女の子に、そう言ったこの人の声も、いつもと違っていて。 やわらかくて、やさしくて、甘い響き。 すると、その女の子が、持っていた傘をなぜかこちらに差し出してくる。 どうして? 「西新田、それ貸してやっから。返すのいつでもいーから」 どうやらこの兄妹は、僕が傘を持ってないと思っているらしい。 折りたたみ傘が教室にあります、って言葉を、僕は咄嗟に飲み込む。 僕に向かって微笑んで、傘を渡そうとしてくる女の子の好意を。 いらない、と、断ることを、したくなかった。 「ありがとう、ございます」 僕は黒い傘を受け取って、小さく頭を下げる。 僕を残して、それからふたりはきれいな色の、小さな傘の中で。身を寄せ合って歩き出す。 あの人は妹に合わせて、なるべく背をかがめて。持った傘のほとんどを、妹に差し掛けて。自分の体が濡れることなど、ちっとも厭わずに。 世界一しあわせそうな相合傘。僕の入る隙間のない。 借りた傘を開いたら、目の前が真っ暗になった。 僕は傘を高く掲げる。 遠ざかり、小さくなるふたりの後ろ姿に傘を重ねる。 入る隙間がないなら作ればいい。 もっと大きな傘を、用意して。 彼女の大切なものだって。ぜんぶぜんぶ、僕の傘の下に、入れてしまえばいい。 僕は、彼女と初めて会った日に。 僕の未来を、予感していた。 僕は一生彼女のことを好きだろう、って。 彼女が誰を、好きであろうと。